神尾主膳が続けざまにお銀様の名を呼んだ時は、もう酒乱の境まで行っていました。その時は思慮も計画も消滅して、これから燃え出そうとするのは、猛烈なる残忍性のみであります。
「お銀どの、お銀どの」
二階の梯子段の上まで行って下を見ながら、またお銀様の名を呼びました。けれどもお銀様の返事はありません。
「お銀どの、お銀どの」
例の刀を持ちながら広い梯子段を、覚束《おぼつか》ない足どりで二段三段と降りはじめました。
「はい」
この時、はじめて廊下をばたばたと駈けるようにして来たのはお銀様であります。どこにいたのか、お銀様は神尾の呼んだ声をいま聞きつけて、廊下を急ぎ足で駈けて来ましたけれど、面《かお》は恥かしそうに俯向《うつむ》いて、両袖を胸の前へ合せていました。
「ああ、お銀どの、今、そなたを呼びに行こうとしていたところじゃ。さあ、これへお上りなされ、誰もおらぬ、遠慮なくお上りなされ。お上りなされと申すに」
その言いぶりが穏かでないことよりも、その酔っていることがお銀様を驚かせましたけれども、神尾はお銀様の驚いたことも、またお銀様をこんなことで驚かせては不利益だということも、一向見境いがないほどになっていました。
「ちと、そなたに見せたいものがある、そなたでなければ見ても詰らぬもの、見せても詰らぬものじゃ。さあ、遠慮することはない、こちらへおいであれ」
主膳は手を伸ばしてお銀様の手をとろうとしました。お銀様はさすがに遠慮するのを、神尾は無理に右の手で、お銀様の手を取りました。左の手には例の梨子地の鞘の長い刀を持っていました。
「そんなにしていただいては、恐れ多いことでございます」
お銀様が遠慮をするのを、主膳は用捨《ようしゃ》なくグイグイと引張ります。お銀様はしょうことなしにその梯子段を引き上げられて行くのであります。
引き上げられて行くうちに、爛酔《らんすい》した神尾主膳が、その酔眼をじっと据えて自分の面《かお》を見下ろしているのとぶっつかって、お銀様はゾッと怖ろしくなりました。
お銀様はこの時まで、まだ神尾について何事も知りません。知っていることは、その仲媒口《なこうどぐち》によっての誇張された神尾家の噂《うわさ》のみでありました。何千石かの旗本の家であったということと、まだ若いということと、多少は放蕩をしたけれど放蕩をしたおかげで、人間が解《わか》りがよくて物事に柔らかであるというようなことのみ聞かされていました。そうして父の許へしばしば訪れて来た主膳の面影は、ほぼそれに相当すると思っていました。
前の晩には思わぬところでその人に逢って、この屋敷へ送られて来ました。主膳があの際に何の必要であの辺を通り合せたかということに疑念がないではなかったけれど、自分を労《いた》わってこの屋敷まで送って来て、そのうち相談相手になると言って今日までここに待たしておいたもてなしは、親切であり行届いたものでありましたから、お銀様はすくなからず神尾の殿様を信頼しておりました。
その人が、今ここへ来て見ると、酔っていて――しかもその酔いぶりは爛酔であります。爛酔を通り越して狂酔の体《てい》であることは、どうしても今までのお銀様の信頼の念を、ぐらつかせずにはおきません。神尾が自分を上から見据えている眼は、貪婪《どんらん》の眼でありました。単に酔っているだけの眼つきではありません。この酔態を見た時に、神尾主膳の人柄を疑いはじめたお銀様は、その眼を見た時になんとも言えぬ厭《いと》うべき恐怖を感じました。それと共に、急いで神尾に取られた手を振り放そうとしましたけれど、それは締木《しめぎ》のように固く握られてありました。
お銀様は、ついに二階の一間まで、主膳のために手を引かれて来てしまいました。
そこは主膳が今まで飲んでいたところらしく、獅噛《しかみ》のついた大火鉢の火が熾《おこ》っているし、猩々足《しょうじょうあし》の台の物も置かれてあります。
「お銀どの、なんと見事な雪ではないか、この松の雪を御覧候え、これは馬場の松といって自慢の松の樹じゃ」
主膳も座に着きました。しょうことなしにお銀様はその向うにモジモジとして坐っています。
「結構な松の樹でござりまする」
お銀様は怖々《こわごわ》と庭を覗《のぞ》きました。池の汀《みぎわ》の巨大なる松の樹は、鷹が羽を拡げて巌の上に伸ばして来た形をして枝葉を充分に張っている上に、ポタポタと雪が積み重なっているのは、さすがに自慢の松であり、見事な雪であることに、怖々ながらお銀様も見惚《みと》れます。
松を見ているお銀様の横顔を、神尾主膳は例の貪婪《どんらん》な眼つきで見据えていました。
「お銀どの」
「はい」
「いい松であろう、木ぶりと申し枝ぶりと申し、あのくらいの松はほかにはたんとあるまい、あれ
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