》を行おうということであります。
 八幡の流鏑馬は古来の吉例でありました。それは上代から毎年八月十五日を期して行われたのでありましたが、久しく廃《すた》れていたのを、この二月|初卯《はつう》を期して――後代の佳例に残るかどうかは知らないが、ともかくもやってみたいというのが発企者《ほっきしゃ》の意見で、それに輪をかけたのが賛成人と市中村々の人民とでありました。
 この発企は、駒井能登守から出たものと言ってもよろしいのであります。能登守の家の重役が八幡の古例を調べ出して、ふとこのことを能登守に話すと、能登守はそれは面白い、その古例を復興してみたいものだと言いました。それを上席の勤番支配太田筑前守に話してみると、筑前守も喜んで同意を表しました。それに並み居る人々も、単に上役に対する追従《ついしょう》からでなく、心からその企てを面白いことに思ってはずみました。
 すでにその辺から纏《まと》まったことであるから、それが城下へうつる時は、一層の人気になるのは無論のことであります。
 二月初卯の日、八幡社前において三日間の流鏑馬《やぶさめ》が行われるということは、城下から甲州一円の沙汰になりました。
 初めの二日は古例によって、甲州一国の選ばれたる人と馬――あとの一日は甲府勤番の士分の者。それに附随して神楽《かぐら》もあれば煙花《はなび》もある、道祖神のお祭も馳せ加わるという景気でありましたから、女子供までがその日の来ることを待ち兼ねておりました。
 能登守の家来たちは、八幡社前の広い場所に縄張りをしました。大工が入り、人足が入り、馬場を設けたり桟敷《さじき》をかけたりすることで、八幡のあたりはまだ当日の来ないうちから、町が立ったような景気であります。
 能登守自身もまた馬に乗っては、この工事の景気を時々巡視に行きました。これはもとより能登守一人の催しではないけれども、最初に言い出した人であるのと、地位の関係から、ほとんど能登守が全部の奉行《ぶぎょう》を引受けたような形勢であります。
 能登守の家中《かちゅう》は、この催しの世話役に当って力を入れているばかりでなく、士分の者から選手を出す時に、ぜひとも自分の家中から誰をか出さねばならぬ、その時に自家の選手が他家の者に後《おく》れを取るようなことがあってはならぬ、というその責任から、或いは勇み、或いは用心をするということになりました。
 殊に主人の駒井能登守が砲術の名手として聞えた人であるだけに、その家中から、ロクでもない人間を出してしまっては、それこそ取返しのつかない名折れであると思って、重役や側用人たちは、もうそのことで心配していました。
 それがために例の重役や側用人らが苦心を重ねているうちに、どうしても聞き捨てにならぬことが出来たと見えて、重役が主人の許《もと》へ出て来ました。
「このたびの流鏑馬のお人定めは、誰をお指図でござりましょうや……就きまして我々共、容易ならぬ心配を致しおりまする。と申すのは、かの神尾主膳殿の許に、信州浪人とやら申す至って弓矢の上手が昨今滞在の由にござりまする、それは必ずやこのたびの流鏑馬を当て込んで、例の意地を立て、わが手に功名を納めんとの下心と相見えまする。あの神尾主膳殿は何の宿意あってか、いちいち当家に楯《たて》をつくようなことばかりを致されまする。よってこのたびの流鏑馬の催しに、功名をわが手に納めんとの下心より、一層、当家に対して、腹黒き計略が歴々《ありあり》と見え透くようでござりまする。それ故に、このたびのお人定めは疎略に相成りませぬ、万一のことがありますれば、お家の恥辱、また神尾主膳がこの上の増長、計りがたなく存じまする」
 家来たちは心からこのことを憂いているのであり、また憂うることに道理もあるのでありましたが、能登守はそれを知ってか知らずにか、
「そりゃそのほうたちが思い過ごし、このたびの催しは、寸功を争うためにあらずして、国の兵馬を強くせんがため……しかし、其方たちの申すことも疎略には思わぬ、追ってよき人を見立てて沙汰を致そう」
「仰せながら、もはや余日もいくらもごりませぬ、一日も早く御沙汰を下し置かれませぬと。本人の稽古と準備のために……」
「その辺も心得ている、それ故、家中一同にその用心を怠らず、いつ沙汰をしても驚かぬようにしているが肝腎」
 能登守自身も必ずや、このことを考えていないはずはない。事は些細《ささい》ながら、家の面目と責任というようなことへ延《ひ》いて行くことも考えていないはずはないでしょう。

 この時分、神尾主膳の屋敷では、このごろ召抱えた信州浪人の小森というのが、主人の御馳走を受けながら、しきりに用人たちを相手に気焔を吐いていました。小森の年配は四十ぐらい、名は小森だが実は大きな男でありました。
「拙者の流儀は、信濃の
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