振り飛ばすと、覆面の侍は前へのめってしまいました。
「ざまあ見やがれ」
いつしかその後ろから、また一人の覆面の侍が出て来て、
「どっこい」
と組みつきました。
「まだいやがる」
がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれと組打ちをはじめる。その隙《すき》に前にのめっ[#「のめっ」に傍点]た覆面は起き上りながら、その袋入りの刀を奪い取ろうとする。
「いけない」
と言って、ほぼ一緒に起き返ったお角が、その侍の手に持った刀へ噛《かじ》りつきました。
「この女、小癪《こしゃく》な奴」
「泥棒、泥棒」
お角はこう言って大声を立てようとした、その口を侍が押える。お角は必死になったけれど男の力には敵《かな》わない。
「この野郎」
喧嘩にかけて敏捷ながんりき[#「がんりき」に傍点]は、足を掬《すく》って組みついていた方の覆面の侍を打倒《ぶったお》して、今お角を蹴倒して刀を持って逃げようとする侍の行手に立ちはだかる。
「お角、だまっていねえ、泥棒泥棒なんて言っちゃあいけねえ」
と言いながら、持って逃げようとする袋入りの刀を、また引ったくろうとする。前に投げ倒されたのがまた起き直る。蹴倒されたお角がじっとしてはいない。
この四個《よっつ》の人影がここで組んずほぐれつ大格闘をはじめてしまいました。争うところはその袋入りの刀にあるらしい。
お角は何だかわからないけれども、がんりき[#「がんりき」に傍点]の危急と見て格闘の仲間入りをしました。女だてらに負けてはいないで、武者振りついていました。
「あッ」
という声でお角は慄え上りました。
「百さん、どうおしだえ」
お角は我を忘れてがんりき[#「がんりき」に傍点]を呼ぶ途端に、一人の覆面のために烈しく地上へ投げ出され、その拍子に路傍の石で脾腹《ひばら》を打ってウンと気絶してしまったから、その後のことは何とも分りません。
それからどのくらい経ったのか知れないが、お角は介抱される人があって呼び醒《さ》まされた時に、気がついて見れば、やはり覆面の侍が傍にいました。
しかし、同じ覆面の侍でも今度の侍は、前の覆面の侍とは確かに相違していることがわかります。人品も相違しているし、風采《ふうさい》も相違していることがわかります。
「お女中、気を確かにお持ちなさい、お怪我はないか」
と背を撫でているのは、その人品骨柄《じんぴんこつがら》のよい覆面の侍ではなくて、その若党とも覚《おぼ》しき覆面をしない侍でありました。
「はい、有難う存じまする、別に怪我はござりませぬ」
お角はすぐにお礼と返事とをしました。
「何しろ危ねえことでございます、血がこんなに流れているから、わっしどもはまた、お前様がここに殺されていなさるとばかり思った」
気味悪そうに提灯を突き出して四方《あたり》を見廻しているのは、やはりこの人品骨柄のよい覆面の侍のお伴《とも》をして来た草履取《ぞうりとり》の類《たぐい》であろうと見えます。
「血が流れていて人が殺されていないから不思議。お女中、そなたはいずれの、何という者」
「いいえ、あの……」
「包まず申すがよい」
「あの、わたくしは……」
お角は問い糺《ただ》されて、おのずから口籠《くちごも》ります。その口籠るので、若党、草履取はお角にようやく不審の疑いをかけると、
「これには何ぞ仔細があるらしい、ともかく屋敷へ同道致すがよかろう」
と言ったのは、人品骨柄のよい覆面の武家でありました。その声を聞くと爽《さわや》かな、まだお年の若いお方と思われるのみならず、その声になんとやら聞覚えがあるらしく思われるが、お角は急には思い出されません。
「いいえ、わたくしはここで失礼を致します、もうあの、大丈夫でございますから」
と言って、やみくもに袖を振切って駈け出してしまいます。
一行の人はその挙動を呆気《あっけ》に取られて見ていたが、別に追蒐《おいか》ける模様もなく、屋敷へ帰ってしまいました。
その屋敷というのは駒井能登守の屋敷であって、覆面の品のよい武家は主人の能登守でありました。
このことについて、その翌日、何か風聞が起るだろうと思ったら、更に起りませんでした。あの附近を通った者が、血の痕《あと》のあることをさえ気がつかずにしまいました。恐らく昨夜のうちに、それを掃除してしまったものがあるのでありましょう。その場のことはそれだけで過ぎてしまいました。
十二
甲府の市中にもこのごろは辻斬の噂が暫く絶え、御老中が見えるという噂も、どうやら立消えになったようであります。それで甲府の内外の人気もどうやら気抜けがしたようであったところに、はしなく士民の間に火を放《つ》けたような熱度で歓迎される催しが一つ起りました。その催しというのは、府中の八幡宮の社前で、盛大なる流鏑馬《やぶさめ
前へ
次へ
全52ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング