うございますとも、抵当にお預かり致したものでございますから……」
「知っての通り、今、その方に支払うべき持合せがない、明日までには都合致すが、その一振は家の宝じゃ、そちに抵当に遣わすと言ったのも一時の座興、手放せぬ品じゃ、置いて行ってもらいたい」
「これは恐れ入りました、その手で、いままで殿様にはずいぶん御奉公を致しておりまする、今晩もまた一時の座興なんぞとおっしゃられてしまっては、友達の野郎に対しても、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》が立ちません、殿様の御都合のよろしい時まで、この刀は確かにお預かり申し上げました」
片手で青地錦に入れた一振を取っておしいただき、
「皆様、御免下さりませ」
お辞儀をして、さっさと立ってしまいました。
神尾主膳はじめ一座の者は、険《けわ》しい眼をしてその後ろ影を見送るばかりで、さすがに身分柄、手荒いことも出来ません。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は神尾の屋敷を出た時に、青地錦の袋に入れた刀を背負っていました。
上弦の月が中空にかかっているのを後ろにして、スタスタと歩き出すと、
「もし百さん」
と言って塀の蔭から出たのは、女の姿であります。
「誰だい」
「わたしだよ」
「お角か」
「あい」
「何しにそんなところへ来てるんだ」
「お前さんが来るのを待っていたのだよ」
「家に待ってりゃあいいじゃないか」
「そうしていられないから出て来たんじゃないか」
傍へ寄って来たのは、女軽業の親方のお角であります。
「どうしたのだ」
「どうしたのじゃない、お前、またこのお邸へ入り込んだね」
「入っちゃ悪いか」
「悪いとも……だけれど、今はそんなことを言っていられる場合じゃない、手が入ったよお前。手が入ったから、あすこにはいられない、あすこへ帰ることもできない」
「そうか」
「これからどうするつもり」
「どうしようたって、どうかしなくちゃあ仕方がねえ、やっぱり逃げるんだな」
「どこへ逃げるの、わたしだって着のみ着のままで、ここまで抜けて来たのだから」
「だから、俺は俺で勝手に逃げるから、お前はお前で勝手に逃げろ」
「そんなことを言ったって……」
「まあ、こっちへ来ねえ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、お角を塀の蔭へ連れて来て、
「幸い、今夜はこっちの目と出て、これこの通りだ。山分けにして半分はお前にくれてやるから、こいつを持ってどこへでも行きねえ」
「そうしてお前は?」
「俺は俺で、臨機応変とやらかす」
「そんなことを言わないで、一緒に連れて逃げておくれ」
「そいつはいけねえ、おたげえのために悪い」
「お為ごかしを言っておいて、お前はこのお邸のお部屋様のところへでも入浸《いりびた》るんだろう」
「馬鹿、そんなことを言ってられる場合じゃあるめえ」
「それを思うと、わたしは口惜《くや》しい」
「何を言ってるんだ」
「もしお前がそんなことをしようものなら、わたしはわたしで持前《もちまえ》を出して、折助でもなんでも相手に手あたり次第に食っつき散らかして、お前の男を潰《つぶ》してやるからいい、このお金だってお前、あの後家さんだかお部屋様だかわからない女の手から捲き上げて来たお金なんだろう」
「そんなことがあるものか」
「そうにきまっている、そんならちょうど面白いや、あの女から貢《みつ》いだ金をわたしの手で使ってやるのがかえって気持がいい、みんなおよこし」
「持って行きねえ」
「もう無いのかい」
「それっきりだ」
「その背中に背負《しょ》っているのは、そりゃ何?」
「こりゃ脇差だ、これも欲しけりゃくれてやろうか」
「そんな物は要らない」
「さあ、それだけくれてやったら文句はあるめえ、早く行っちまえ、こうしているのが危ねえ」
「それでも……」
「まだ何か不足があるのかい」
この時、二人の方へ人が近づいて来ます。がんりき[#「がんりき」に傍点]とお角は離れ離れに、塀の側と辻燈籠《つじどうろう》の蔭へ身を忍ばせようとした時、
「何をしやがるんだい」
やにわにがんりき[#「がんりき」に傍点]に組みついて来たものがあります。
それと見たお角は、前後の思慮もなくその場へ飛びかかりました。
「貴様は――」
覆面の侍の後ろから飛びかかったお角は、直ちに突き倒されてしまいました。
「神尾の廻し者だろう、大方、そう来るだろうと思っていた」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は片手を後ろへ廻して、侍の髱《たぼ》を掴んで力任せに小手投げを打とうとしました。侍はその手を抑えて、がんりき[#「がんりき」に傍点]が差置いた青地錦の袋入りの刀を取ろうとしました。
「それをやってたまるものか」
片腕のがんりき[#「がんりき」に傍点]は両手の利く侍よりも喧嘩が上手でありました。侍の腰がきまらないところを一押し押して
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