よりも能登守に近づく機会が多いので、自然にムク犬に対するお君の情が薄くなるように見えました。しかし、お君はムク犬を粗末にするわけではなく、ムク犬もまた主人を疎《うと》んずるというわけではありませんでした。
 お君とムク犬との関係がそんなになってゆく間に、お松とムク犬とがようやく親密になってゆくことが、目に見えるようであります。
 それだからムク犬は、或る時は駒井家の庭の一隅に眠り、或る時は神尾の家へ行って遊んで来るのであります。神尾の家といってもそれは本邸の方ではなく、別家のお松の部屋の縁先であります。お松はこの犬を可愛がりました。
 神尾家の本邸のうちは、このごろ見ると、またも昔のような乱脈になりかけていることがお松の眼にはよくわかります。貧乏であった神尾主膳がこの春来、めっきり金廻りがよくなったらしい景気が見えました。けれどもその金廻りがよくなったというのは、知行高《ちぎょうだか》が殖《ふ》えたからというわけではなく、また用人たちの財政がうまくなって、神尾家の信用と融通が回復したというわけでもないようです。
 このごろ神尾家へは、雑多な人が入り込みます。札附《ふだつき》の同役もあれば、やくざの御家人上《ごけにんあが》りもあり、かなり裕福らしい町人風のものもあり、また全然|破落戸風《ごろつきふう》のものもある――それらの人が集まって、夜更くるまで本邸の奥で賭場《とば》を開いていることを、お松は浅ましいことだと思いました。神尾主膳に金廻りがよくなったというのは、それから来るテラ銭のようなものでしょう。
 中奥《なかおく》の間《ま》ではその夜、また悪い遊びが開かれていました。その場の様子では主膳の旗色が大へん悪いようです。
 主膳の悪いのに引替えて、いつもこの場を浚《さら》って行くは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百であります。
 一座の者が一本腕のがんりき[#「がんりき」に傍点]のために、或いは殺され、或いは斬られて、手を負わぬものは一人もない体《てい》たらくでありました。
 それを見ていた神尾主膳は、業《ごう》が煮えてたまりませんでした。
「百蔵、もう一丁融通してくれ、頼む」
と言い出すと、
「殿様、御冗談《ごじょうだん》おっしゃっちゃいけません、もうおあきらめなすった方がお得でございます」
「左様なことを言わずにもう一丁融通致せ、新手《あらて》を入れ替えて、貴様と太刀打ちをしてみたい、見《み》ん事《ごと》仇を取って見せる」
「駄目でございますよ、新手を入れ替えたところで、返り討ちにきまっておいでなさいますから、今宵のところはこの辺でお思い切りが肝腎でございますよ」
「どうしても融通ができぬか」
「冗談じゃございません、このうえ融通して上げたんじゃ、勝負事の冥利《みょうり》に尽きてしまいますからな」
「けれども貴様、それじゃ勝ち過ぎる」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が縦横無尽に場を荒すのを神尾主膳も忌々《いまいま》しがっていたが、一座の連中もみんな忌々しがっていました。主膳は堪り兼ねて、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、それでは抵当《かた》の品をやる、それによって融通しろ」
「よろしうございます、相当の抵当を下さるのに、それでも融通をして上げないと、左様な頑固なことは申しません。そうしてその抵当とおっしゃいますのは」
「この品だ」
 神尾主膳は、青地錦の袋に入れた一振《ひとふり》の太刀を床の間から取り外しました。それは多分|伯耆《ほうき》の安綱の刀でありましょう。
 神尾主膳は秘蔵の刀を当座の抵当に与えて、それで、がんりき[#「がんりき」に傍点]からいくらかの金を融通してもらいました。けれども不幸にしてその金もたちどころに、がんりき[#「がんりき」に傍点]に取られてしまいました。案の如く見事な返り討ちです。片手で自分の膝の前に堆《うずだか》くなっている場金《ばがね》を掻き集めながら、
「ナニ、今日はわっしどもの目が出る日なんでございます、殿様方の御運の悪い日なんでございます、殿様方がお弱いというわけでもございませんし、わっしどもがばかに強いというわけなんでもございません、勝負事は時の運なんでございますから、これでまた、わっしどもが裸になって、殿様方がお笑いになる日もあるんでございますから、わっしどもは決して愚痴は申しません」
 場金を掻き集めて胴巻《どうまき》に入れてしまい、
「それからこの一品、どうやら、わっしどもには不似合いな品でございますが、せっかく殿様から抵当《かた》に下すった品でございますから、持って帰って大切にお預かり申して置きます……」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、ちょっと待ってくれ」
 神尾主膳が言葉をかけました。
「何か御用でございますか」
「その刀は置いて行ってもらいたい」
「よろし
前へ 次へ
全52ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング