国の住人|諏訪大夫盛澄《すわのたいふもりずみ》から出でたもので……この盛澄は俵藤太秀郷《たわらとうだひでさと》の秘訣を伝えたものでござる」
と言って得意げに語るところを見れば、騎射に相当の覚えのあるものであることに疑いないらしい。
「このねらい方というやつが……人によってはこれを鏃《やじり》からねらうものもある、また左からねらうものもあるけれど、これはいずれもよくないこと」
小森は柱に立てかけてあった塗弓を手に取りながら、ねらい方のしかたばなしをはじめました。
「一途《いちず》にこうして鏃ばかりでねらうと、鏃の当《あて》はよくても、桿《かん》の通りが碌《ろく》でもないことになると、矢の出様が真直ぐにいかない。また弓の左からねらうと、矢というものはもとより右の方にあるものだから、鏃が目に見えなくなる。それで的《まと》の見透《みとお》しが明瞭《はっきり》とせぬ故、遠近の見定めがつかぬ……その故にねらいの本式はまず弓を引き分くる時に的を見、さて弓を引込めたる時、目尻でこう桿から鏃をみわたし、それから的を見透すというと、これは大《さす》、これは小《おちる》、これは東《まえ》、これは西《うしろ》ということが明瞭《はっきり》とわかるのでござる」
と言いながら小森は、中黒の矢を一筋とって弓に番《つが》えて、ねらいの形をして見せました。なるほど、よい形で、さすがに手練《てだれ》の程も偲《しの》ばれないことはありません。
「しかし、これは遠いところを射る時のねらい方で、もし五十間より内ならば、その節にはみな弓の左よりねらうようにせねばならぬ。流鏑馬《やぶさめ》の時、すべて騎射の時は、大抵十間二十間の際において射ることでござるから、やはり左からねらうがよろしい……かるにより近いところを射るには、押手を勝手よりも低くすること、またその時は右よりねらわずに、左よりねらうのが本式でござる。つまり遠近によりてねらいに左右の差別があることは、拙者が申し上ぐるまでもなくおのおの方も御存じのところでござろう」
「平地にて射る時、馬上にて射る時にも、その心得にいろいろの差別がござりましょうな」
と座中から問うものがありました。
「いかにも」
と小森は頷《うなず》きながら、弓から矢を外《はず》してしかたばなしをやめ、
「騎射というても、もとより流鏑馬《やぶさめ》に限ったことはござらぬ、朝廷にては五月五日の騎射、駒牽《こまひき》、左近衛《さこんえ》、右近衛《うこんえ》の荒手結、真手結、帯刀騎射《たてわききしゃ》というような儀式、武家では流鏑馬に犬追物《いぬおうもの》、笠掛《かさがけ》、みな馬上の弓でござる。このたび当所にて催さるる流鏑馬はいずれの古式にのっとられるか知らねど、多分は小笠原の流儀によることならんと存ぜらるる。ともかく、明日にも馬場を拝借して一責め致してみたいと存じ申す。その節、実地につき拙者の心得申したるところをいささかながら御参考のためにお話し申し上げたい、また拙者の流儀が他流と異なるところをも多少なりと御覧に入れたい」
こう言って諄々《じゅんじゅん》と語るところを見れば、必ずや相当の自信がないものではないと思わせられるのであります。
主膳はこの人を招くことにおいて非常な苦心をしました。人を遣《つか》わして信州から、わざわざ招かせたものでありました。それは無論、流鏑馬の当日に手柄を現わし、己《おの》れが面《かお》を立てると共に、駒井能登守に鼻をあかさせたい心からでありました。表向きは自分の家中ということにしておくけれど、このことが済めば多分の礼を与えて送り帰すという、客分の待遇で迎えて来たものです。
宇津木兵馬はその時分、もうすっかり身体が癒《なお》っておりました。身体は癒ったが、まだここを立つというわけにはゆきません。
今は日に増し元気も血色もよくなってゆくのに、兵馬はひとりその部屋で机に向って読書に耽《ふけ》っておりました。
その時に、二階へ上って来る人の足音を聞きました。それが二人の足音であった時には、お君がお松の手引をして来るのであるし、それが一人の足音である時は、能登守が見舞に見えるのが例でありました。今は一つの足音であったから、能登守にきまっていると、兵馬は襟を正して待っていると、
「兵馬どの」
果してそれは能登守でありました。
「これはこれは」
と言って兵馬は、褥《しとね》を辷《すべ》って礼をしました。能登守はいま研究室から来たものと見えて、筒袖羽織に袴であります。
「退屈でござろうな」
「こうして読書を致しておりますれば、さのみ退屈にも感じませぬ」
「毎朝一度ずつは、庭へ出て散歩をなさるがよかろう。いずれ近いうちには、自由の身にして上げたい、もう暫くこのままで辛抱されるように」
「有難きことに存じまする、なにぶんのお指
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