この声に兵馬は夢を破られました。軽い眠りの床から覚めて見ると、そこに立っている女の姿。
「お松どの」
兵馬もさすがに、驚きと喜びとを隠すことができないらしい。
「御気分は?」
「もう大丈夫」
兵馬は生々とした声でありました。
「ああ、わたしは心配致しました」
「どうもいろいろと有難う」
「お手紙を確かにいただきました」
「昨日はまた薬を有難う」
「あの友さんという人が、ちょうどこちらのお屋敷に雇われていたものですから。何かにつけて仕合せでございました」
「あれは、わしも知っている人……それからまたお君どのも」
「はい、お君さんにも、わたしは会うことができました、そのお君さんの手引でこうして上りました」
「して、主人の許しを得て?」
「いいえ、こちらの殿様はただいまお留守なのでございます」
「とにかくも、この屋敷へ落着いたことは当座の仕合せ、この上は一日も早く全快して、ひとまず甲府の土地を立退かねばなりませぬ」
「早く御全快なすって下さいまし。兵馬様、わたしはこんなものを持って参りました」
と言いながらお松は、持って来た風呂敷包を解くと、真綿《まわた》でこしらえた胴着でありました。
「お気に召しますか、どうでございますか」
と言って、その胴着のしつけの糸かなにかを取りますと、
「それほど寒いとも思わぬが、せっかくのお志だから」
兵馬は蒲団《ふとん》の上に坐り直して、挿帯《さしこみおび》をしていたのを解きかけました。
「兵馬様、これから毎日お訪ねしてもよろしうございますか」
「悪いことはないが、人に咎《とが》められると迷惑ではないか」
「誰にも知られないように用心して参りまする」
「それでも、この家の主人に知られぬわけにはゆくまい」
「こちらのお殿様は、お君さんを可愛がっておいでなさいますから……」
お松は面を赧《あか》らめます。
十
あとを慕って送って来るムク犬を無理に追い返した米友は、甲州の本街道はまた関所や渡し場があって面倒だから、いっそ裏街道を突っ走ってしまおうと、甲府を飛び出して石和《いさわ》まで来ました。
石和で腹をこしらえた米友は、差出《さしで》の磯や日下部《くさかべ》を通って塩山《えんざん》の宿《しゅく》へ入った時分に、日が暮れかかりました。
「もし、そこへ行くのは友さんじゃないか」
袖切坂の下で、やはり女の声でこう呼びかけられたから米友は驚きました。
「エ、エ!」
眼を円くして見ると、
「ほら、どうだ、友さんだろう」
と女はなれなれしく言って傍へ来るから、米友はいよいよ変に思いました。
もう黄昏時《たそがれどき》でよくわからないけれども、その女はこの辺にはあまり見かけない、洗い髪の兵庫結《ひょうごむす》びかなにかに結った年増の婀娜者《あだもの》のように見える。着物もまた弁慶か格子のような荒いのを着ていました。
はて、こんな人に呼びかけられる覚えはないと米友は思いました。
「誰だい」
「まあ、お待ちよ」
と言って女が傍へ寄って来た時に、はじめて米友は、
「あ、親方」
と言って舌を捲きました。これは女軽業の親方のお角《かく》でありました。なぜか米友ほどの人物が、このお角を苦手《にがて》にするのであります。この女軽業師の親方のお角の前へ出ると、どうも妙に気が引けて、いじけるのはおかしいくらいです。
もともと、黒ん坊にされたのは承知のことであって、道庵先生に見破られたために、その化けの皮を被《かぶ》り切れなかったのは米友の罪でありました。米友はそれは自分が悪かったと、それを今でも罪に着ているから、それでお角を怖れるのみではありません。
もし前世で米友が蛙であるならば、お角が蛇であったかも知れません。どうも性《しょう》が合わないで、それが米友の弱味になって、頭からガミガミ言われても、得意の啖呵《たんか》を切って、木下流の槍を七三に構えるというようなわけにはゆかないから不思議であります。
「あ、親方」
と言って米友が舌を捲くと、お角の方は今日は意外に素直《すなお》で、その上に笑顔まで作って、
「どうしたの、今時分、こんなところをうろついて……」
「これから江戸へ帰ろうと思うんだ」
「これから江戸へ、お前が一人で?」
「うん」
「そうして、どこから来たの、今夜はどこへ泊るつもりなの」
「甲府から来たんだ、今夜はどこへ泊ろうか、まだわからねえんだ」
「そんなら、わたしのところへお泊り」
「親方、お前のところというのは?」
「いいからわたしに跟《つ》いておいで」
米友は唯々《いい》としてお角のあとに跟いて行きました。お角はまた米友を従者でもあるかのように扱《あしら》って、先へさっさと歩いて袖切坂を上って行きます。
「お前、甲府へ何しに来たの」
「俺《おい》らは去年、人を送って甲府へ来
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