府にいるということをすらおたがいに知ってはおりません。
米友の口から聞けば聞かれるのであったろうけれど、米友はこのことをお松に語りませんでした。お松は外へ出る機会が多少あっても、その後のお君は屋敷より外へ、ほとんど一歩も踏み出したことはありませんでした。それ故、二人はここで偶然に会うまで、その健在をすらも忘れておりました。
今見れば、お松は品のよい御殿女中の作りです。これはお松としてそうありそうな身の上であるけれども、お君がこうして奥向きの立派な身なりをしていようとは、お松には思い設けぬことでありました。お君は、久しぶりで会った人に、涙を見せまいとして元気を作りました。お松は、人の留守へ入って来たきまりの悪いのを言いわけするように、
「わたしはここにいる若い衆さんに、お頼み申してあることがあります故、つい無作法にこうやって参りました、それをここであなたにお目にかかろうとは思いませんでした、どうして、いつごろからこちら様においでなさいますの」
お松は昔の朋輩《ほうばい》の心持で尋ねました。
「これにはいろいろと長いお話がありますから、後でゆっくり申し上げましょう。そして、お松さん、お前さんは今どちらにおいであそばすの」
お君の方からこう言って尋ねました。
「わたしは、こちらの勤番のお組頭の神尾主膳の邸の中におりまする」
「あの神尾様の……そうでございましたか、少しも存じませんでした」
「わたしもお君さんが、わたしのいるところからいくらも遠くないこの能登守様のお屋敷においでなさろうとは、夢にも存じませんでした。お見受け申せば、昔と違ってたいそう御出世をなされた御様子」
「はい、お恥かしうございます」
お松から出世と言われてみると、お君はなんとなしに恥かしい心持になりました。お松はそう言って、気のつかないように綺羅《きら》びやかなお君の姿を見直しましたけれど、どうもよく呑込めないような心持がするのであります。
自分はまだ娘であるけれどもこの人は、もう主《ぬし》ある人か……というような不審から、お松はなんだか、昔のように姉妹気取りや朋輩気取りで呼びかけることに気が置けるのであります。
「お松さん、ここではお話が致し悪《にく》うございますから、わたしの部屋までおいであそばせ」
お君はお松を自分の部屋へ案内しようとしました。
「はい、あの……ここにおいでなさる米友さんというお方は?」
「あの人は、今、あの、どこかへ……お使に行きましたから」
「左様でございますか。わたしはあの人にぜひ会わねばならない用事がありますの」
「そのうち帰って参りましょう、お手間は取らせませぬから、どうぞわたしのところまで」
お松はお君の部屋へ導かれて、そこで両女《ふたり》は水入らずに一別以来の物語をしました。
この物語によって見ると、お松はお君の今の身の上の大略を想像することができました。お松もまた甲州へ来る道中の間で、駒井能登守の人柄を知っているのでありましたから、その人に可愛がられるお君の今の身の上は幸福でなければならないと思いました。
けれどもお松は、そんなことのみを話したり聞いたりするために尋ねて来たのではなかった、大事の人に会わんがために来たのでありました。晴れて会われない人に、そっと会うべく忍んで来たのでありました。そっと会えるように米友が手引をしてくれるはずになっていたから、それで米友を訪ねて来たのですが、その米友がいないで、偶然にも会うことのできたその人はお君――かえってこれは一層自分の願いのために都合がよいと思いました。この屋敷においてはずっと地位の低い米友を頼むよりは、主人の寵愛《ちょうあい》を受けているこの優しい人に打明けたのが、どのくらい頼みよくもあるし、都合もよいか知れないと気がついたから、お松は、やがてそのことをお君に打明けて頼みました。
果してお君は、お松が思っている通りに、よい手引をしてくれる人でありました。お松が思ったより以上に快く承知をして、そのことならば誰に頼むよりも、わたしにという意気込みで返事をしてくれました。且つ、今は幸いに主人もいないから、これから直ぐに、わたしがそのお方の休んでおいでなさるところへ御案内をしましょう、ということでありました。お松が飛び立つほど嬉しく思ったのも無理はありません。
お松のようにおちついた性質《たち》の女が、ソワソワとする様子を見るとお君も嬉しくありました。この人をこんなに喜ばせるのは、またあの兵馬さんを喜ばせることになるのだと思えばなお嬉しくありました。こういう人たちの間の手引をして喜ばせる自分の身も嬉しいことだと思いました。
両女《ふたり》は人目に触れないで二階へ上ることができました。お君は、先に立ってその一室の障子を細目にあけて中を見入り、
「兵馬さん」
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