たんだ」
「そうして今まで何をしていたの」
「今まで奉公をしたりなんかしていたんだ」
「どこに奉公していたの」
「旗本の屋敷やなんかにいたんだ」
「そしてお暇を貰って帰るのかい」
「そうじゃねえんだ」
「どうしたの」
「俺らの方でおんでたんだ」
「そんなことだろうと思った、お前のことだから」
「癪《しゃく》に触るから飛び出したんだ」
「お前のように気が短くては、どこへ行ったって長く勤まるものか」
「そうばかりもきまっていねえんだがな」
「きまっていないことがあるものか、どこへ行ったってきっと追ん出されてしまうよ」
「俺らばかり悪いんじゃねえや」
「そりゃお前は正直者さ、あんまり正直過ぎるから、それでおんでるようなことになるのさ」
「その代り、こんど江戸へ出たら辛抱するよ」
「それからお前、いつぞやお前はお君のところを尋ねに両国まで来たことがあったね」
「うん」
「それだろう、お前は人を送って来たというのは附けたりで、ほんとはあの子を尋ねにこちらへ来たのだろう」
「そういうわけでもねえんだ」
「しらを切っちゃいけないよ、そういうわけでないことがあるものか、お前をこちらへよこした人の寸法や、お前がこちらへ来るようになった心持は、大概わたしの方に当りがついているんだから」
 米友はそこで黙ってしまいました。どこまで行っても受身で、根っから気焔が上らないで、先《せん》を打たれてしまうようなあんばいです。
 袖切坂のあたりは淋しいところで、ことに右手はお仕置場《しおきば》です。袖切坂はそんなに大した坂ではないけれど、そこを半分ほど上った時に、
「おや」
と言って、どうしたハズミか、先に立って行ったお角が坂の中途で転《ころ》びました。物に躓《つまず》いて前へのめ[#「のめ」に傍点]ったのであります。
「危ねえ、危ねえ」
 米友はそれを抱き起すと、
「ああ、悪いところで転んでしまった」
 見ればお角の下駄の鼻緒が切れてしまっています。それをお角は口惜しそうに手に取ると、はずみをつけてポンと傍《かたえ》のお仕置場の藪《やぶ》の中へ抛《ほう》り込んで、
「口惜しい、うっかりしていたもんだから、袖切坂で転んでしまった」
 キリキリと歯を噛んで口惜しがりました。お角の腹の立て方は、わずかに転んだための癇癪《かんしゃく》としては、あまり仰山でありました。
「怪我をしたのかね、かまいたち[#「かまいたち」に傍点]にでもやられたのかね」
 米友は多少、それを気遣《きづか》ってやらないわけにはゆきません。
「そんなことじゃない、袖切坂で、わたしは転んでしまったのだよ、ちぇッ」
 お角の言いぶりは自暴《やけ》のような気味であります。
「袖切坂がどうしたって」
「ここがその袖切坂なんだろうじゃないか、ところもあろうに、あんまりばかばかしい」
「そりゃ木鼠《きねずみ》も木から落っこちることがある、転んだところで怪我さえしなけりゃなあ」
「怪我もちっとばかりしているようだよ、向《むこ》う脛《ずね》がヒリヒリ痛み出した」
と言ってお角は、紙を取り出して左の足の膝頭《ひざがしら》を拭くと、ベッタリと血がついていました。
「やあ血が!」
 米友も、その血に驚かされると、お角は、
「怪我なんぞは知れたことだけれど、袖切坂で転んだのが、わたしは腹が立つ」
 お角は、よくよくここで転んだのが癪で堪《たま》らないらしい。
 袖切坂を登ってしまうと行手に大菩薩峠の山が見えます、いわゆる大菩薩嶺《だいぼさつれい》であります。標高千四百五十|米突《メートル》の大菩薩嶺を左にしては、小金沢、天目山、笹子峠がつづきます。それをまた右にしては鶏冠山《けいかんざん》、牛王院山《ごおういんざん》、雁坂峠《かりざかとうげ》、甲武信《こぶし》ケ岳《たけ》であります。
 素足で坂を登りきったお角は――坂といっても袖切坂はホンのダラダラ坂で、たいした坂でないことは前に申す通りです。そこで、お角は米友を顧みて、
「友さん」
と米友の名を呼びました。
「よく覚えておきなさい、この坂の名は袖切坂というのだから」
 そういう言葉さえ余憤を含んでいるのが妙です。
「袖切坂……」
 米友は、お角に聞かされた通り、袖切坂の名を口の中で唱えましたけれど、それは米友にとってなんらの興味ある名前でもなければ、特に記憶しておかねばならない名前とも思われません。
「ナゼ袖切坂というのだか、お前は知らないだろう」
「知らない」
「知らないはずよ、わたしだって、ここへ来て初めて土地の人から、その因縁《いわれ》を聞いたのだから」
 お角は坂を見返って動こうともしません。米友もまたぜひなくお角の面《かお》と坂とを見比べて、意味不分明に立ちつくしていました。そこらあたりは畑と森と林が夕靄《ゆうもや》に包まれて、その間に宿はずれの家の屋
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