と米友が言いました。
 お嬢さん、と米友が言うのは、それはお松のことでありました。お松とその伯母さんという人を米友は、江戸から笹子峠の下まで送って来た縁があります。
「米友さん、久しぶりでしたわね」
とお松が言いました。
「ほんとに久しぶりだな。お前さん、どうして俺《おい》らがここにいることがわかった」
「さっき、ちょっと見かけたから、それで」
「では、ムクの首へ手紙をつけたのもお前さんだね」
「そうよ」
「そんなことをしなくても、表から尋ねて下さればいいに」
「それがそうゆかないわけがあるから、それであんなことをしたの。米友さん、お前に内密《ないしょ》で頼みたいことがあるのだけれど、少しの間、外へ出て貰えないの。そうでなければ、わたしを中へ入れて話を聞いて貰いたいのだけれど」
「うむ、そうさなあ」
と言って米友は、少しく考えていましたが、
「俺《おい》らは、ちょっと外へ出るわけにはいかねえんだ」
「では米友さん、後生《ごしょう》だけれど、こちらのお屋敷の誰にも知れないようにして、お前さんの部屋か何かへ、わたしを通して下さいな、そこでぜひお前さんに話をしたいことがあるんだから」
「そりゃ構わねえ、俺らの部屋でよければ、お寄んなさるがいい。ううん、誰にも見られやしねえ。見られたところで、なにも痛いことも痒《かゆ》いこともあるめえじゃねえか」
「おかしな米友さんだこと、それは痛くも痒くもないけれど、少し都合があって誰にも見られたくないのだから、そのつもりで」
「いいとも、早く中へ入っちまいな、ここを閉めるから」
 お松はそのまま潜《くぐ》り戸《ど》をくぐって庭の中へ入りました。米友はそのあとを閉して錠を下ろしてしまいます。
「米友さん、わたしはどうしようかと思ったけれど、お前さんが、蓑を着て鉄砲を担いで裏門を入って行く姿を見たものだから、こんな仕合せなことはないと思って、どうかしてお前さんが、もう一ぺん出て来るのを待っていようと、さっきからこの通りを二度も三度も歩いているうちに、この犬がお屋敷から出て来たものだから、ほんとにいい塩梅《あんばい》でした」
 米友は、お松を己《おの》れの部屋へ案内して、炉の火を焚きました。
「米友さん」
 改まってお松は、米友の名を呼びます。
「何だ」
 米友は眼を円《つぶら》にしました。
「わたしが、お前さんに聞きたいことと、それから頼み
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