かだちにたつようなムク犬でないことによって、打消されてしまうのであります。
「ムク、ともかくもまあ案内してみろやい」
 米友は下駄を突っかけました。ムク犬はその先に立ちました。
 これより前の晩に、ムク犬はこれと同じようにして、米友とお君とを引合せました。今はまた別の何者かを、米友に引合せようとするらしいのであります。
 けれども、その潜《くぐ》り戸《ど》をあけるためには、ぜひとも一度、お君の部屋まで行かねばならないのでありました。お君の部屋にその鍵があるのですから。
 米友はこのごろ、お君の部屋へ行くことをいやがります。その前を通ることさえ忌々《いまいま》しがることがあります。けれども今は仕方がないから、番傘を拡げて庭へ廻って、そっとお君の部屋へ入りました。そこにはお君はいませんでした。留守の一間は、化粧の道具がいっぱいに取散らされてありました。
 米友の面にはみるみる不快の色が満ち渡って、壁にかけてあった鍵をひったくるように手に取りました。
 紅や白粉や軟らかい着物を脱ぎ捨てられたのを見た米友は、その場を見ると物凄い眼つきで湯殿《ゆどの》の方を睨《にら》みながら、また番傘を拡げました。ムク犬は常に変った様子もなく、米友を塀の潜《くぐ》り戸《ど》の方へと導くのであります。
 米友が裏の潜り戸をあけて見たけれど、そこには誰も立っていませんでした。
 米友は往来を見廻したけれども、雪が降っているばかりで、誰もいないし、通る人もほとんど稀れであります。
 こいつは、やっぱり欺《かつ》がれたかなと思って、首を引込めると、ムクが勢いよく外へ飛び出しました。ムクがこっちから飛び出すと一緒に、向うの木蔭から蛇の目の傘が一つ出て来ました。雪は掃いてあるところもあり、掃いてないところもあるから歩きづらい中を、蛇の目の傘を傾《かし》げて、足許《あしもと》危なげにこっちへ歩んで来るのは女でありました。面は見えないけれども、その着物と足許で、まだ若い女の人であるということが米友にもよくわかります。
 その人の傍へ飛んで行ったムクは、ちょうどそれを迎えに行ったようなものです。
 誰だろうと思って米友は、その傘の中を早く見たいものだと思いました。
「米友さん」
と言って、すぐ眼の前へ来てから、傘を取るのと言葉をかけるのと一緒であった。その人の面《おもて》を見て、
「やあ、お前はお嬢さんだ」

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