さぬと」
「それ故、こっそりとこの裏口から帰って来た。しかし誰に叱られても、この大雪ではじっとしておられぬわい……留守中、あの病人にも変ることはなかったか」
「よくお休みでございます、気分もおよろしいようで」
「それは何より。さあ、これがお前への土産《みやげ》じゃ」
「まあ、これをお打ちあそばしたのでございますか」
「そうじゃ、荒川沿いの堤《どて》の蔭で」
「かわいそうに」
「これはしたり、そなた殺生《せっしょう》は嫌いか」
「殺生は嫌いでございますけれど、殿様のお土産ならば大好きでございます」
「はは、たあいないものじゃ」
「あの、お風呂がよく沸《わ》いておりまするが、お召しになりましては」
「それは有難い、ではこのまま風呂場へ」
「御案内を致しまする」
米友は、大戸の入口から洩れて来るこれらの会話《はなし》をよく聞いていました。大戸の中をやや離れて覗《のぞ》き込むようにしていたが、その額に畳んだ小皺《こじわ》のあたりに雲がかかって、その眼つきさえ米友としてはやや嶮《けわ》しいくらいです。
そこで話がたえたけれども、この会話の間にも、お君の口からも能登守の口からも、米友という名前は一言も呼ばれませんでした。遺憾ながら「友さんも帰りましたか」という言葉が、お君の口から出ないでしまいました。それで二人は風呂場へ行ってしまったようでした。米友は大戸の入口から、まだ中を睨《にら》んで立っています。
それから米友は、軒下を歩いて自分の部屋へ帰ろうとする時に、
「誰だい、そこの節穴からこの屋敷の中を覗いているのは誰だい」
と言って、また立ち止まって塀を睨みました。
「また折助のやつらだろう、誰に断わってそこからこっちを覗くんだ、やい、鉄砲を打放《ぶっぱな》してくれるぞ」
おどかすつもりであろうけれども、米友は担《にな》っていた鉄砲を肩から卸《おろ》しました。
米友が推察の通り、この塀の外から中を隙見《すきみ》していたのは折助でありました。折助が三人ばかり先刻から節穴を覗いていたのを、米友に見つけられて彼等は丸くなって雪の中を逃げました。
折助は雪の中を、こけつまろびつ逃げて、とうとう八日市の酒場まで逃げて来ました。それは縄暖簾《なわのれん》の大きいので、彼等の倶楽部《くらぶ》であります。
彼等三人がこの八日市の酒場へ逃げ込むと、そこには土間の大囲炉裏《おおいろり
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