めに一夜を眠ることができませんでした。
夜が明けた時にお銀様は、そう言いました。
「ああ、あなたはお眼が見えない、お眼が見えないから、わたしは嬉しい」
竜之助とお銀様との縁は悪縁であるか、善縁であるか、ただし悪魔の戯れであるかは、わかりません。
けれども、甲府のあたりの町の人にはこれが幸いでありました。その当座、机竜之助は辻斬に出ることをやめました。甲府の人は一時の物騒な夜中の警戒から解放されることになりました。
お銀様は、竜之助と共に暫らくこの座敷牢の中に暮らすことを満足しました。竜之助は、このお銀様によって甲府の土地を立退くの約束を与えられました。
六
神尾主膳が躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷から、あわてて帰った時分に、駒井能登守はまた、こっそりとその屋敷へ戻って来ました。
出て行った時には都合四人であったのが、帰った時は二人きりです。その二人とは、当の能登守と、それから跟《つ》いて行った米友とだけです。
「米友」
能登守が米友を顧みて呼ぶと、
「何だ」
米友は上眼使いに能登守の面《かお》を見上げて、無愛想な返事です。
「大儀であったな」
「ナーニ」
米友は眼を外《そ》らして横を向いて、能登守の労《ねぎら》う言葉を好意を以て受取ろうとしません。屋敷に着いた時も、表から入らずに裏から入りました。
出て行った時でさえ、家来の者も気がつかなかったくらいだから、帰った時には、なお気がつく者がありませんでした。
主人を送り込んだ米友は、その鉄砲を担いだままで、ジロリと主人の入って行った後を見送っていました。
「お帰りあそばせ」
と言って迎えたのは女の声であります。女の声、しかもお君の声であります。その声を聞くと米友は眼をクルクルと光らせて、大戸の中を覗《のぞ》き込むようにしました。けれども主人能登守の姿も見えないし、お君の姿も見えません。二人の姿は見えないけれど、その声はよく聞えます。
「よく降る雪だ」
「この大雪に、どちらまでおいであそばしました」
「竜王の鼻へ雪見に行って来たのじゃ」
「ほんとに殿様はお好奇《ものずき》でおいであそばす」
というお君の声は、晴れやかな声でありました。
「ははは、これも病だから仕方がない」
能登守も大へんに御機嫌がよろしい。
「また御家来衆に叱られましょう、お好奇《ものずき》も大概にあそば
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