こと。
 それよりも早いのは、いま桟敷の下へ潜ったかと思うと、もうその裏から同じ男の姿が桟敷の屋根の上に現われたことでありました。
「あれよあれよ」
といううちに、その男は平地を飛ぶように桟敷の屋根の上を飛んで、正面大屋根の修羅場《しゅらば》へ駈けつけるのであります。
 弦を切って投げつけた花鋏《はなばさみ》だけは受けとめたけれども、小森は歯噛みをして、空しくその敏捷な男の走るのを見送るだけでありました。
 小森は歯噛みをしたけれど、見物は一度にドッと喝采《かっさい》しました。喝采して、
「態《ざま》あ見やがれ!」
と怒鳴った時は、小森の矢が幔幕へ当ってダラリと落ちた時でありました。彼等はその大人げない侍が、見《み》ん事《ごと》、矢を射損じたと見たからそれで、
「態あ見やがれ!」
と喝采したのであります。そこに別の人が潜り込んでいて、花鋏でいま張り切った弓弦《ゆんづる》をチョキンと切ってしまって、態あ見やがれと叫んで、花鋏を投げつけて、桟敷の下へ潜って行ったというような細かい働きは、彼等には認めることができませんでした。
 彼等が認めることのできなかったのは無理もないことで、すぐその傍にいた神尾主膳をはじめ数多かりし侍たちまでが、小森の飛んでもない失策が何によったかを知ることができないで、呆気《あっけ》に取られるばかりでありました。
 さすがに小森だけはそれを知って、直ちに弓を捨てて刀を抜きましたけれど、花鋏を受け留めただけで、当の敵にはサッパリ手答えがありません。
 罵《ののし》る群集も、驚く侍たちも、歯噛みをする小森も、一斉に屋根の上を見上げた時に、前の通り屋根の上を、平地を駈けるが如く飛んで行く旅人体《りょじんてい》の男を見るのみであります。
 その時は、もう小柄《こづか》を投げても及ばない時で、もちろん弓の弦をかけ直したり、替弓を取寄せたりする余裕はありませんでした。
「この鋏で、これこの通り。憎い奴だ」
 小森は落ちた花鋏を拾い上げて、神尾に示し、人混みの中に紛れ込んでいた奴が、不意にこれで張り切った弓弦《ゆんづる》を後ろから切ったということを、言葉と挙動とで忙《いそが》わしく説明しました。
「実に言語道断の敏捷《すばしこ》い奴じゃ、掏摸《すり》どもの仲間に相違あるまい、あれあの通り」
 屋根の上の旅人体の男を小森は空しく指して、無念の形相《ぎょうそう》を
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