ここから遠矢にかけて射て落し、大勢の難儀を救うてやりたいものじゃ」
「確《しか》と左様でござるか、あの真中に立ちはだかった一人が、確かに悪者でござりまするかな」
 小森は念を押しました。
「確と左様、あの悪者を射て落せば事は落着する、万一、このままで同類が加勢すると容易ならぬ騒動になる」
「しからば仰せに従い、あれを一矢|仕《つかまつ》ろう。しかし神尾殿、あの通り組んずほぐれつの中では覘《ねら》いは至極《しごく》困難致す、足を傷つけて下へ落し、命は助けておきたいと存ずるが、一図《いちず》にそうもなり兼ねる、万一、一矢であの者の息の根を止めても後日の難儀はござるまいか」
「それは念には及び申さぬ、なまじ斟酌《しんしゃく》して射損ずるよりは、いささかも遠慮せず一矢に射落し候え」
「しからば、仰せの通りに仕る」
「命があってはかえって後日の面倒、ものの見事に射殺《いころ》して苦しうない、あとの責めは拙者が引受ける」
「しからば」
 小森蓮蔵は片肌を脱いで、白重籐《しろしげとう》の弓に中黒の矢を番《つが》えました。
「卑怯だ、卑怯だ」
という声がこの時、周囲の群集の中の誰からともなく起って、
「まだどっちがどうなんだかわからねえんだ、それを無暗に遠矢にかけるのは卑怯だ、もうちっとばかり待てやい、これからの立廻りが面白いんだ」
 やはり誰ともなく叫ぶ声であります。それには頓着なく小森蓮蔵は、弓をキリキリと満月のように引き絞って覘いをつけた的は、屋根の上のがんりき[#「がんりき」に傍点]の百であります。
 小森は弓を満月の如く引き絞りましたけれども、組んずほぐれつの間に、がんりき[#「がんりき」に傍点]だけへ矢先を向けることがむずかしい。ほかのやつらへは怪我をさせないで、がんりき[#「がんりき」に傍点]一人を射て落そうとするために、覘いに時間を要するらしい。
 その間に、見物はようやく不穏の色を以て、小森の弓勢《ゆんぜい》を眺めるようになりました。
「なにも、ああやって、飛道具を用いるまでのことはなかろうじゃねえか、悪い者なら行って引括《ひっくく》って来るがよかろうじゃねえか、役人が手を下《くだ》すまでのことがなけりゃあ、あいつらに任せておいたらよかりそうなものじゃねえか、何が何だかわからねえうちに射殺《いころ》してしまおうというのは、あんまり乱暴だろうじゃねえか、第一、今日は
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