ところで、他の桟敷はここを正面として、長く左右の花道のようになっていました。それですから、ツマリ両花道から追い込んだ捕物を、本舞台で立廻りを見せて、捉まえるか逃がすかという場合にまで展開されてしまったわけです。
この望外の見物をどうして見残して帰れるものか。流鏑馬の競技があまり上品に取り行われて、期待したほどの興味を齎《もたら》さなかったのを飽かず思っていた大向うは、これで充分に溜飲《りゅういん》を下げようとするのであります。
沈んだ日暮とはいうものの、白根《しらね》の方へ夕陽の光がひときわ赤く夕焼をこしらえて、この桟敷の屋根へ金箭《きんせん》を射るようにさしかけていましたから、下の広場から見物するにはまだ充分の光でありました。ことに夕暮の色は、この活劇の書割《かきわり》を一層濃いものにしたから、白昼に見るよりは凄い舞台面をこしらえて、登場の裸虫どものエッサエッサと言う声も、物凄いやら、勇ましいやら。
これから屋敷へ帰ろうとした神尾主膳もまた、この騒ぎを見物しないわけにはゆきません。主膳はその一類の者と共に馬場の下から、桟敷の上の舞台面を見上げているうちに、何に気がついたか、面《かお》を顰《しか》めて慌《あわただ》しく左右を顧み、
「小森殿、小森殿」
と呼びました。
エッサエッサという裸虫は両方から取詰めて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、正面をきって彼等を待ち受けるよりほかは身動きのならぬ立場に至ってしまいました。右の方は八幡宮の屋根までは距離が遠いし、前は馬場、後ろは控えの小屋、どちらへ向いても人が充満しきっています。
「野郎」
裸虫《はだかむし》が一匹、飛びつきました。
「何をしやがる」
とがんりき[#「がんりき」に傍点]は左の拳を固めて、眼と鼻の間を突くと、裸虫が仰向けに桟敷の上から突き落されました。
「この野郎」
つづいて飛びかかる裸虫、般若《はんにゃ》の面《めん》を背中に彫《ほ》りかけてある裸虫。
「手前《てめえ》もか」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は平手でピシャリと横面《よこづら》を撲《なぐ》っておいて、足を飛ばして腹のところを蹴ると、これも真逆《まっさか》さまに転げ落ちる。
「野郎」
第三の裸虫。
「ふざけやがるな」
第四の裸虫。
「この野郎」
第五の裸虫。
「野郎、野郎」
第六の裸虫とそれ以下の裸虫。
屋根の上
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