た。肝腎の百蔵はいつのまにか、群衆の頭を踏み越えて、蓆張《むしろば》りの見世物小屋の丸太を伝って屋根から屋根を逃げて行きます。
「野郎、逃がすな」
それと見た博徒や破落戸《ならずもの》の連中は同じように丸太を足場にして、見世物小屋へ這《は》い上って追っかけました。
それで下の騒ぎが上へうつったのと、役人たちの取鎮めとが効を奏して、下の方の動揺は鎮まりましたけれども、下の動揺が上へ登った時に、かえってことを一層の見物《みもの》にしてしまいました。
それは今までこのことの騒ぎが、いったい何に原因するのだかわからずに騒いでいた連中が、仰いで見れば、ともかくもその成行《なりゆき》が見られるようになったからであります。それですから、ことを怖がる女乗物の連中などのほかは、一人もこの場を立去るものがありません。
がんりき[#「がんりき」に傍点]は血塗《ちまみ》れになって、丸太から丸太、蓆《むしろ》から蓆を伝って猿《ましら》のように走って行きます。それが見えたり隠れたり、眼もあやに走ると、そのあとを同じように裸体《はだか》になった荒くれ男が、
「野郎、逃がすな」
と罵《ののし》って、何人となく蛙のように飛びついて行くのですから、その原因と人柄はよくわからないながら、確かに面白い見物《みもの》であることに相違ありません。
この時分に、短刀を投げ捨ててしまっていたがんりき[#「がんりき」に傍点]は、それでも青地錦だけは口に啣《くわ》えて放すことではありませんでした。
小屋から小屋を飛んで歩いたがんりき[#「がんりき」に傍点]は、いつのまにか馬場の桟敷の屋根へ飛び移っていました。
「それ、野郎が桟敷の屋根へ飛んだ」
蛙のような裸虫《はだかむし》が、桟敷の屋根、桟敷の屋根と言いながら飛びついたけれども、これらの裸虫は、がんりき[#「がんりき」に傍点]のやったように手際よく、小屋掛けから桟敷の屋根まで飛びうつることができません。
彼等は一旦、小屋の尽きたところで飛び下りて、搦手《からめて》から、この桟敷の屋根へのぼり始めました。
「エッサ、エッサ」
桟敷の柱と屋根とは、みるみる裸虫で鈴なりになってしまいました。
桟敷の屋根の上をツーと走ったがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、正面の馬見所《ばけんじょ》の方へと逃げて行きます。ここは太田筑前守と駒井能登守の両席のあった
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