って宇津木兵馬も、人波の中に揉まれていなければならなくなったし、奥方様という女乗物の一行が、まともにそれと打突《ぶっつ》かったのは気の毒でもあり、慮外千万な出来事でもありました。
「無礼者、控えろ」
 お供先の足軽や侍が駈けつけました。
「どうでもしてみやがれ」
 短刀を揮《ふる》った裸一貫の男は、敢《あえ》て警固の足軽や侍を畏《おそ》れようとはしません。
「控えろ!」
 棒を持ったのが、追っかけて来る博徒を遮《さえぎ》りましたけれども、博徒連中は、そんなものが眼に留まらぬくらいに気が立っていました。
「野郎、ふざけやがって……」
「無礼者、控えろ」
 ここでお供先の足軽や侍は、博徒連を取押えるために、彼等を相手に格闘せねばならなくなりました。
「喧嘩だ、喧嘩だ」
と群衆は、いよいよ沸き立たないわけにはゆきません。
 短刀を左の手で揮った裸の男は、右の手が無いにも拘らず、その身体《からだ》のこなしの敏捷なことは驚くべしであります。取押えようとする同心や足軽の手先の棒先を潜《くぐ》り廻って、あちらへ抜け、こちらへ抜ける早業が、充分に喧嘩と人騒がせに慣れきっているものの振舞です。
 女乗物を囲んでいる女中たちは泣き出しそうです。
 宇津木兵馬のあとを追うていた二人の同心は、この騒ぎでも兵馬を見捨てて、その騒ぎの方へ出向くことを躊躇《ちゅうちょ》しました。
「左様、それでは」
 一人が一人の耳に口をつけて囁《ささや》くと、囁いた方が人を分けて前へ進み出し、囁かれた方は、もとのままに兵馬を監視しているらしい。
 この時は、すべての催しが済んで花火が盛んに揚りました。崩れ立った人の足、帰りに向く人も、出かけて来た人も、そこで食い留められ、吸い寄せられて、押す、踏む、倒れる、泣く、叫ぶ、喧嘩ならぬところに喧嘩以上の動揺の起ることは免《まぬが》れないのであります。
 喧嘩の起りはたった一人の仕業《しわざ》らしいが、その及ぼすところが怖ろしいと、心あるものはそれを憂えていました。
 ここで青地錦の袋へ入れた刀を口に啣《くわ》えて、裸体《はだか》で荒れ狂っている片腕の男ががんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であることは申すまでもありません。
 百蔵一人がエライわけではないけれど、百蔵一人のために大混乱を引起して、その大混乱が阿鼻叫喚《あびきょうかん》の世界に変ろうとする時でありまし
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