本だけ。でもみな相当の面目を損ずることなくして流鏑馬を終りました。
この十六番の射手が流鏑馬《やぶさめ》を終って、馬を乗り鎮め、馬場を乗り廻して仮屋へ帰る勢揃いがまた見物となります。そのなかでも、どうしても評判に上り易いのは宇津木兵馬であります。
「あれは駒井能登守様のお小姓《こしょう》じゃそうな。駒井の殿様は鉄砲の名人、それであのお小姓までが弓の上手」
兵馬はなるべく人に面《おもて》を見られたくないので、笠で隠すようにしていました。
神尾主膳は過ぎ行く十六騎の射手を見送っていましたが、小森はそこへ来ると得意げに挨拶する。
主膳はそれに会釈しながら、その次に来る宇津木兵馬の面《かお》を、笠の下からよく覗いて見ようとします。
流鏑馬が済むと、他の射手は、まだ仮屋にいる間に宇津木兵馬だけは引離れてしまいました。兵馬は流鏑馬の時の綾藺笠《あやいがさ》に行縢《むかばき》で、同じ黒い逞《たくま》しい馬に乗って、介添《かいぞえ》や的持《まともち》をひきつれて仮屋へ帰って、直ちに衣服を改めて編笠で面を隠して、大泉寺小路というのを、ひそかに廻って、やはり人に知れぬように能登守の屋敷へ帰るものと見えます。
兵馬が行くとそのあとを、二人の同心がつけて行きました。
流鏑馬が終って花火が盛んにあがりました。そろそろ帰りに向いた群集と、これから繰り出して来る連中とで、人出は容易に減退の色を見せません。
「お帰りだお帰りだ、奥様方のお帰りだ」
という声で、人波の揺返《ゆりかえ》しがあります。
前の通路《とおりみち》を、見事な女乗物を真中に盛装した女中たちが附添うて、その前後には侍や足軽たちが固めて、馬場の庭から、それぞれの邸へ帰るものらしい。
兵馬もまた、この人波の揺返しの中へ捲き込まれて、押されて行くよりほかはありません。押され押されて行くうちに、ついその女中たちの行列と押並んで歩かねばならないようになりました。この際、
「喧嘩だ!」
この声はよくない声であります。この場合にこんなよくない声の聞えるのは不祥なことであったけれども、この行列の練って帰らんとする行手で、
「喧嘩だ、喧嘩だ」
続けざまに聞えたので、スワと聞く人は顔の色を変えました。
噪《さわ》ぎの起りはまさしく、前の露店と小屋掛けのあたりから起ったものに相違ないのであります。
「そーれ、喧嘩だ」
甲州の人
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