ころはないのだけれど、それでも彼等のために、桟敷下のかなり見よいところを世話役が割《さ》いてくれました。
酒樽と煮しめとをたくさんに仕込んで、八日市の酒場を繰出したこれらの折助の一隊何十人は、ほどなく馬場へ繰込んで、この桟敷下へ陣取りました。ここで彼等のうちの批評家と皮肉屋は何か見つけて、腹をえぐるような、胸の透くような文句を浴びせかけてやろうと待ちかねています。
生憎《あいにく》のこと――世話役が少し気が利かなかった、この折助席の向うは、例の赤い雛壇の婦人席の桟敷でありました。その間はかなり隔たっていたけれども、少なくともそれと相対していることは、折助連の批評と皮肉のためによい標的《まと》であって、その標的に置かれた善良なる婦人たちのためには、実に不幸なことでありました。
折助がこの席に着いた時分は、駒井能登守はもう着座していた後のことであって、折助は、桟敷下の蓆《むしろ》の上へ胡坐《あぐら》をかいて、人集《ひとだか》りの模様には頓着なく、まず酒樽の酒を片口《かたくち》へうつして、それを茶碗へさして廻り、そこから蒟蒻《こんにゃく》や油揚や芋の煮しめの経木皮包《きょうぎがわづつみ》を拡げ、冷《ひや》でその酒を飲み廻し、煮しめを摘みながら、おもむろに桟敷から桟敷、見物から見物を見廻すのであります。
ところが、はじめて気がついたように、赤い雛壇のところで眼を据えてしまいました。何か言おうとして咽喉《のど》をグビグビさせたけれど、幸いに、ちょうどその時に合図の花火が揚りました。
このほかに、まだ一つ大目に見なければならないものがありました。それは名物の博徒《ばくと》――長脇差の群であって、こういう場合には、ほとんど大手を振って集まって来て、おのおのしかるべき格式によって、賭場《とば》を立てるのが慣例でありました。
けれども、これは慣例に従って大目に見て、それぞれの親分なる者の権力を黙認しておきさえすれば、取締りにそんなに骨の折れることではありません。
この連中は別に流鏑馬を見たいわけではなし、また見物を見に来るのでもなく盆の上の勝負を争いに来るのだから一見してこの社会の者ということが知れるのであります。
ところがここに、なんとも見当のつかない二人の者がこの日、東山梨の方のどこかの山の中から出て、裏山伝いをドシドシ歩いて甲府の方へ出て行くのは、やはり流鏑馬を
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