の上席にあるということであります。能登守をいただいて、少なくとも自分がその次席にあるということが、主膳にとっては堪えられない残念でありました。事毎に能登守に楯を突こうというのも、そもそもそこから出ているのでありました。
その後は、見るもの聞くもの、すること為すことが、能登守とさえ言えば腹が立つ種であります。ことに、こんな晴れの場所において、能登守に主人面に振舞われることは、自らの存在を蔑《ないが》しろにされたように侮辱を感じて、それが一層、憎悪に変ずるのであります。
己《おの》れが威勢をこの際、多くの人に見せつけるがために、わざと桟敷の前をああして打たせて歩くのだなと思いました。どうかしてあの鼻先を挫《くじ》いて、この際、思い入り恥辱を与えてやりたいものだと、番組を持つ手先がブルブルと慄えるほどに残念がりました。
主膳は自分が主人役になって酒肴を開かせました。一座はいずれも酒盃を手にしたが、やはり見物をながめては、いろいろの品評がはじまります。
ここに集まった人は、おおよそ何人ぐらいあるだろうという答案を募《つの》るものもありました。その答案が三万と言ったり、五万と言ったり、また飛び離れて十万と言ったり、思い切って区々《まちまち》であったところから、昔、信玄公が勝千代時分に、畳に二畳敷ばかりも蛤《はまぐり》を積み上げて、さて家中《かちゅう》の諸士に向い、この数は何程あらん当ててみよと、おのおの戦場|場数《ばかず》の功者に当てさせたところが、或いは二万と言い、或いは一万五千などと言った、その実、勝千代丸があらかじめ小姓の者に数えさせておいた数は三千七百しかなかった――そこで勝千代殿は、ああ、人数というものは多くはいらないものじゃ、五千の人数を持ちさえすれば何事でも出来るものだわいと言って、老功の勇士に舌を振わせたのは僅かに十三歳の時のことであった、後年名将となる人は異なったものだ、というような話も出ました。
けれどもまた一方において、対岸の桟敷の婦人連を遠目に見て、大入場の連中とほとんど選ぶところのないような品評を試むる者が多くありました。また桟敷以外にいる町民や農家の子女たちを物色して、かえって野の花に目のさめる者がいるなんぞと、興がるものもありました。上役の手前もあり、身分の嗜《たしな》みもあったからこの席では、そんなに不謹慎なところまでは行きませんでし
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