見たことはないけれど……という受太刀があります。
 けれども、そのいずれにしてもみんな想像説に過ぎません。弥次と喜多とが拾わぬ先の金争いをするようなことになってゆくことがおかしくあります。
 ああいう美しい殿様の奥方はさぞ美しかろう、一対《いっつい》の内裏雛《だいりびな》のような……と言い出すものがあると、いやそうでない、ああいう殿様に限って、奥方が醜女《ぶおんな》で嫉妬《やきもち》が深くて、そのくせ、殿様の方で頭が上らなくて、女中へ手出しもならないように出来ている、よくしたものさと、なんだか一人で痛快がっているものもありました。
 よけいなお世話ではないか――大入場では、先からこのよけいなお世話で沸騰していましたけれど、もともと影を追っての沸騰ですから、議論の結着しようがありません。
 結局、三日のうちには、必ずその奥方が一度は姿を見せるであろうから、その時に鉄札か金札かを見届けようということで議論が定まりかけた時分に、裏庭で一発の花火が揚りました。それを合図に烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》の世話役が出て来ました。
 例の雛壇のうちには、この日は、どちらかと言えば奥方連の方が多いのでありました。その奥方連も、若い奥方連がこの日は多く見えていました。その若い美しい奥方連の中に、太田筑前守の奥方ばかり四十を越した年配の、権《けん》のありそうな婦人であります。
 両支配の次の桟敷には、神尾主膳がその同役や組下の連中と共に、ほとんど水入らずで一つの桟敷を占領していました。
 ここでは主膳が大将気取りで、座中には酒肴を置いて、主膳は真中に、いま刷物《すりもの》の競馬の番組を見ていました。その他の連中は番組を見たり冗談を言ったり、対岸の桟敷と、場内に稲麻竹葦《とうまちくい》と集まった群集をながめていたりして、競馬の始まるのを待っています。
 そのうちに、人がどよめいたから、主膳はなにげなく番組の刷物を眼からはなして馬場の方を見ると、今、駒井能登守が前を通り過ぎたところです。
 能登守の男ぶりが、場内の人気となって騒がれている時でありました。それを見ると神尾主膳は、何ともなしにグッと癪《しゃく》にさわりました。それで険《けわ》しい眼つきで能登守の後ろ姿と、それを見送る群集とを睨めました。
 神尾主膳にとっては、駒井能登守というものの総てが癪に触るのであります。その第一が、自分
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