りは水際立《みずぎわだ》った美男子でありました。それはまず大入場《おおいりば》の連中を唸《うな》らせたほかに、かの雛壇の連中をして、
「まあ、御支配様」
と言って恍惚《うっとり》とさせてしまったことほど、能登守の男ぶりが立優《たちまさ》って見えました。
こうして能登守は、先任の太田筑前守がいる桟敷の前まで来て馬から下りて、筑前守とおたがいの会釈《えしゃく》があって席に着きました。
能登守の後ろには小姓が附いていないで、若党の一学が跪《かしこ》まっていました。
能登守が着座しても、まだ競馬の始まるまでには時間があります。その間は、見物が見物を見ることによって興味がつながれてゆきました。
見物はそれぞれ勝手に上下の人の噂をし合います。
けれどもその噂の中心が、どうしても能登守に落ちて行くのは争うことはできません。
「ああ、美《い》い男には生れたいものだなあ」
と思わず大きな声で歎息して笑われたものもありましたけれど、笑ったものもまた同じような思いで能登守の姿をながめていました。
雛壇の連中は、さすがに口に出してそれを言うものはなかったけれども、その眼が一人として能登守の後ろ姿を追わないものはありません。
さきには人気の焦点であったこの赤い雛壇が、能登守の姿を現わしたことによって、その人気を奪われてしまいました。場内の人気の焦点から暫く閑却されたのみならず、当の自分たちまでが、能登守の人気に引きずられてゆきました。
大入場では、あれはどなた様の奥方である、あれは誰様のお嬢様、あのお嬢様より侍女《こしもと》の方が美しい、奥様のうちでは身分は少し軽いけれども、結局あの奥様がいちばんの別嬪《べっぴん》だなどと、品評《しなさだめ》をしていたのがこの時、
「それでいったい、あの駒井能登守様の奥方様はどこにおいでなさるのだ」
という問題が出て、一方は能登守の桟敷へ、それから一方はまた、一時閑却していた雛壇の方へ向いて、
「あの美しい殿様の奥方というお方の面《かお》が見てやりたい」
という物色にかかりましたけれど、不幸にしてそれは誰にも見当がつきませんでした。そこでまた議論が沸騰します。
あの殿様にはまだ奥方が無いのだという説が起りました。いいや、あのくらいの身分になって奥方が無いはずはないという説も出ました。それでは見たことがあるかという反駁《はんばく》が出ました。
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