りました。我れ勝ちに前へ進んで、その蓆の下へ履物を押込んで、固唾《かたず》を呑んで見物します。
市街からの道々へは露店が軒を並べてしまいます。
少し風がある分のことで、天気は申し分がないから、朝のうちに広場は人で埋まってしまいました。
やがて合図の花火が揚った時分に、桟敷が黒くなりはじめました。先任の支配太田筑前守は、小姓《こしょう》をつれてその席に着きましたけれど、相役の駒井能登守はまだそこへ姿を見せません。
組頭や、奉行や、目附、同心、小人の士分の者も続々と桟敷へ詰めかけて来ました。その前から沙汰をして、近国の士分の者も同じくその桟敷に招かれたのが少なからず見えるようです。
それよりも人の目を引いたのは、これら士分の者の奥方や女房たちが、侍女《こしもと》や女中をつれてこの桟敷に乗り込んだ時でありました。
桟敷の上には、同じく鳩と菱《ひし》とを描いた幔幕《まんまく》が絞ってある。その下の雛壇のようなところへ、平常《ふだん》余り人中へ面《かお》を見せない奥方や女房や女中たちが、晴れの装《よそお》いをして坐っていることは、場内のすべての人気をその方へ集めました。
そのうちに、競馬のはじまる時刻が近づいて、国内から選《え》りすぐって厩《うまや》につないである馬は、勇んで嘶《いなな》きながら引き出されました。同じ国内から選び出された騎手は武者振いして、馬の平首を撫でながら、我こそという意気を眉宇《びう》の間にかがやかしています。けれどもこうして、すべての桟敷も埋まり、見物も稲麻竹葦《とうまちくい》の如く集まっているのに、今日の催しの主催者であるべき駒井能登守が見えないのに、なんとなく物足りない気持をしているものもありました。しかし、その心配は直ちに取払われてしまいました。
「御支配様」
という声のする東の口を見れば、そこから黒く逞《たくま》しい馬に乗って馬丁に馬の口を取らせ、自分は陣笠をかぶって、筒袖の羅紗《らしゃ》の羽織に緞子《どんす》の馬乗袴をつけ、朱《あか》い総《ふさ》のついた勝軍藤《しまやなぎ》の鞭をたずさえ、磨《と》ぎ澄ました鐙《あぶみ》を踏んで、静々と桟敷の方へ打たせて行くのは駒井能登守。
「好い男だなあ!」
と見物の者が感歎しました。それは弥次《やじ》で言ったのではなく、ほんとに感心して、
「好い男だなあ!」
とどよめいたことほど、能登守の男ぶ
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