いうけれども、何をしているんだか知れたものじゃないと、米友はいいかげんにたかを括《くく》りました。
「おや、妙なことをお言いだね」
 突然と下から聞えたのは、お角の声であります。
「だからどうしようと言うんだ」
 それは男の声。
「どうもしやしない、これからその神尾主膳とやらのお邸へ、わたしが出向いて行って、ちゃあんと談判して来るからいい」
「そいつは面白い」
「面白かろうさ。そうしてそのついでに、百という男は、がんりき[#「がんりき」に傍点]と二つ名前の男で、切り落された片一方の手には甲州入墨……」
「何を言ってやがるんだ」
 下の男と女は、いさかいになったのを、米友は聞き咎《とが》めてしまいました。
 しかし、高い声はそれだけで止んで、男女ともに急に押黙ってしまいました。
 その翌朝、あのがんりき[#「がんりき」に傍点]の何とやらいう小悪党に会わなければならないのだなと思いながら、米友は下へ降りて見ると、お角と女中のほかには誰もいませんでした。
 女中の世話で朝飯を食べてしまっても、昨夜の男は姿を見せませんでした。お角もなにくわぬ面《かお》をしていました。米友もそのことは聞きもしないで、直ちに出立の暇乞いをしました。お角はもっと米友を留めておきたいような口吻《くちぶり》でありましたけれど、そんならと言っていくらかの餞別《せんべつ》までくれました。そうして、遠からずわたしも江戸へ帰るからあっちでまた会おうと言って、米友のために、二三の知人《しるべ》のところを引合せてやったりなどしました。
 そうして米友は、そこを出かけて東へ向って行くと例の袖切坂です。そこへ来ると、いやでも眼に触れるのが、坂の上に立てられてある「袖切坂」の石の道標でありました。
「ここだな」
と思って米友はその石を見ると、袖切坂の文字には昨夜見た通りの朱をさしてありましたが、その文字の下に猿の彫物《ほりもの》のしてあることに初めて気がつきました。この猿はありふれた庚申《こうしん》の猿です。庚申様へ片袖を切って上げるとかなんとか言ったのは、やっぱりここのことだろうと米友は、昨晩のお角の言った言葉を思い出して、再び奇異なる感じを呼び起して見ると、その庚申の下に、片袖ではない――下駄が片一方、置き捨てられてあることを発見しました。
 下駄が片一方、しかもそれは男物ではない、間形《あいがた》の女下駄に黒天
前へ 次へ
全104ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング