《こくてん》の鼻緒、その鼻緒の先が切れたままで、さながら庚申様へ手向《たむ》けをしたもののように置かれてあるのをみとめて、米友は眼を円くしました。
 想像を加えるまでもなく、その下駄はお角の下駄であります。昨夕《ゆうべ》この坂の中程で転んだお角が、焦《じ》れったがって歯咬《はがみ》をしながら、鼻緒の切れたその下駄をポンと仕置場の藪《やぶ》の中へ投げ込んだ時に、米友は怪訝《けげん》な面《かお》をして見ていました。
 それを誰がいつ拾い出したのか、今朝はもうここに、ちゃんとこうして供えられてある――だから米友は眼を円くしないわけにはゆきません。
 迷信や因縁事で米友を嚇《おどか》すには、米友の頭はあまりに粗末でそうして弾力があり過ぎます。昨夕、ここであんなことをお角から言われて、その時はおかしな気分になりました。今はもうほとんど忘れてしまっていました。それだからこうして見ると、誰がしたのかその悪戯《いたずら》が面悪《つらにく》くなるくらいのものでありました。米友は手に持っていた棒をさしのべて、長虫でも突くような手つきで、下駄の鼻緒の切れ目へそれを差し込みました。
 前後と左右を見廻して、その下駄を抛《ほう》り込むところを見定めようとしたけれど、あいにく、あの藪の中へ投げ込んでさえ拾い出してここへ持って来る奴があるくらいだから、畑や道端へうっかり捨てられないと、米友は棒の先へその下駄を突掛けたものの、そのやり場に窮してしまいます。
 やむことを得ず米友は、その下駄を手許へ引取って、片手でぶらさげて、その場を立去るよりほかには詮方《せんかた》がなくなりました。行く行くどこかへ捨ててしまおうと、米友は油断なく左右を見廻して行ったけれども、容易にその下駄一つの捨て場がわかりません。ついには土を掘って埋めてしまおうかとも思いましたけれど、そうもしないで、ほとんど小一里の間、米友はその下駄をぶらさげて歩いてしまいました。
 右の足の跛足《びっこ》である米友が、女の下駄を片一方だけ持ち扱って歩いて行くことは、判じ物のような形であります。

         十一

 その後ムク犬は、駒井と神尾と両家の間を往来するようになりました。お君のムク犬を可愛がることは昔に変らないが、その可愛がり方はまた昔のようではありません。自分で手ずから食物を与えることはありません。またムクと一緒にいる機会
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