府にいるということをすらおたがいに知ってはおりません。
 米友の口から聞けば聞かれるのであったろうけれど、米友はこのことをお松に語りませんでした。お松は外へ出る機会が多少あっても、その後のお君は屋敷より外へ、ほとんど一歩も踏み出したことはありませんでした。それ故、二人はここで偶然に会うまで、その健在をすらも忘れておりました。
 今見れば、お松は品のよい御殿女中の作りです。これはお松としてそうありそうな身の上であるけれども、お君がこうして奥向きの立派な身なりをしていようとは、お松には思い設けぬことでありました。お君は、久しぶりで会った人に、涙を見せまいとして元気を作りました。お松は、人の留守へ入って来たきまりの悪いのを言いわけするように、
「わたしはここにいる若い衆さんに、お頼み申してあることがあります故、つい無作法にこうやって参りました、それをここであなたにお目にかかろうとは思いませんでした、どうして、いつごろからこちら様においでなさいますの」
 お松は昔の朋輩《ほうばい》の心持で尋ねました。
「これにはいろいろと長いお話がありますから、後でゆっくり申し上げましょう。そして、お松さん、お前さんは今どちらにおいであそばすの」
 お君の方からこう言って尋ねました。
「わたしは、こちらの勤番のお組頭の神尾主膳の邸の中におりまする」
「あの神尾様の……そうでございましたか、少しも存じませんでした」
「わたしもお君さんが、わたしのいるところからいくらも遠くないこの能登守様のお屋敷においでなさろうとは、夢にも存じませんでした。お見受け申せば、昔と違ってたいそう御出世をなされた御様子」
「はい、お恥かしうございます」
 お松から出世と言われてみると、お君はなんとなしに恥かしい心持になりました。お松はそう言って、気のつかないように綺羅《きら》びやかなお君の姿を見直しましたけれど、どうもよく呑込めないような心持がするのであります。
 自分はまだ娘であるけれどもこの人は、もう主《ぬし》ある人か……というような不審から、お松はなんだか、昔のように姉妹気取りや朋輩気取りで呼びかけることに気が置けるのであります。
「お松さん、ここではお話が致し悪《にく》うございますから、わたしの部屋までおいであそばせ」
 お君はお松を自分の部屋へ案内しようとしました。
「はい、あの……ここにおいでなさる米友
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