さんというお方は?」
「あの人は、今、あの、どこかへ……お使に行きましたから」
「左様でございますか。わたしはあの人にぜひ会わねばならない用事がありますの」
「そのうち帰って参りましょう、お手間は取らせませぬから、どうぞわたしのところまで」
 お松はお君の部屋へ導かれて、そこで両女《ふたり》は水入らずに一別以来の物語をしました。
 この物語によって見ると、お松はお君の今の身の上の大略を想像することができました。お松もまた甲州へ来る道中の間で、駒井能登守の人柄を知っているのでありましたから、その人に可愛がられるお君の今の身の上は幸福でなければならないと思いました。
 けれどもお松は、そんなことのみを話したり聞いたりするために尋ねて来たのではなかった、大事の人に会わんがために来たのでありました。晴れて会われない人に、そっと会うべく忍んで来たのでありました。そっと会えるように米友が手引をしてくれるはずになっていたから、それで米友を訪ねて来たのですが、その米友がいないで、偶然にも会うことのできたその人はお君――かえってこれは一層自分の願いのために都合がよいと思いました。この屋敷においてはずっと地位の低い米友を頼むよりは、主人の寵愛《ちょうあい》を受けているこの優しい人に打明けたのが、どのくらい頼みよくもあるし、都合もよいか知れないと気がついたから、お松は、やがてそのことをお君に打明けて頼みました。
 果してお君は、お松が思っている通りに、よい手引をしてくれる人でありました。お松が思ったより以上に快く承知をして、そのことならば誰に頼むよりも、わたしにという意気込みで返事をしてくれました。且つ、今は幸いに主人もいないから、これから直ぐに、わたしがそのお方の休んでおいでなさるところへ御案内をしましょう、ということでありました。お松が飛び立つほど嬉しく思ったのも無理はありません。
 お松のようにおちついた性質《たち》の女が、ソワソワとする様子を見るとお君も嬉しくありました。この人をこんなに喜ばせるのは、またあの兵馬さんを喜ばせることになるのだと思えばなお嬉しくありました。こういう人たちの間の手引をして喜ばせる自分の身も嬉しいことだと思いました。
 両女《ふたり》は人目に触れないで二階へ上ることができました。お君は、先に立ってその一室の障子を細目にあけて中を見入り、
「兵馬さん」
 
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