した。
「どっこいしょ」
と言って米友は、竹皮笠を土間から取り上げて被《かぶ》りました。その紐を結びながら、
「やいムク州、永々お世話さまになったが、俺《おい》らはこれからおさらばだ、お前も達者でいなよ」
 ムク犬は悄然として、二人の間の土間にさいぜんから身を横たえていました。
「十七姫御が旅に立つヨ、それを殿御が聞きつけてヨ、留まれ留まれと袖を引くヨ」
 米友は久しぶりで得意の鼻唄をうたいました。この鼻唄は隠《かくれ》ケ岡《おか》にいる時分から得意の鼻唄であります。これだけうたうと笠の紐を結び終った米友は、例の棒を取り直して、さっさとここを飛び出してしまいました。

         九

 米友が出て行ってしまったあとで、お君は堪えられない心の寂《さび》しさを感じました。
 ムクはと見れば、そこにはいません。おそらく米友を送るべくそのあとを慕って行ったものと思われます。
 その時に、この米友の部屋の後ろへそっと忍んで来た人がありました。台所口から、
「こんにちは」
と細い声でおとなうのは、やはり女の声でありました。
 しばらくすると、
「こんにちは」
 二度目も同じ声でありました。
「米友さん」
 三度目に米友の名を呼びました。
「御免下さい」
 台所口の腰高障子をそっとあけて、忍び足で家の中へ入り、中の障子へ手をかけて、
「米友さん」
と言いながら、障子をあけたのはお松でありましたが、米友を呼んで入って見ると、それは米友ではなくて、立派な身なりをした奥向きの婦人が、柱に凭《もた》れて泣いておりましたから、きまりを悪そうに、
「どうも相済みませぬ、あの、米友さんはお留守でございますか」
 泣いている婦人は、その時、涙を隠してこちらを向きました。
「まあ、お前さんは……」
「あなたはお君さん」
「ずいぶん、これはお珍らしい」
「まあ、なんというお久しぶりな」
と言って二人ともに面を見合せたなりで、暫らく呆気《あっけ》に取られていました。
 お松とお君との別れは、遠江《とおとうみ》の海でお君が船に酔って船に酔って、たまらなくなって以来のことであります。あの時、お君だけは意地にも我慢にも船におられないで、上陸してしまいました。
 神尾主膳の家と、駒井能登守の屋敷とは、その間がそんなに遠くはないのに、両女《ふたり》ともに今まで面《かお》を会せる機会がありませんでした。甲
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