に冷淡になりました。冷淡になったのではないだろうけれども、以前のように打てば響くほどに世話が届きませんでした。ムク犬のためにする毎日の食事も、以前は自分から手を下さなければ満足ができなかったのに、このごろでは女中任せになっていました。女中がツイ忘れることもあるらしく、それがためにかどうか、このごろのムク犬は、お君の傍にあるよりは米友の方へ行っていることが多いようであります。
 今、ムクはお君のいるところの縁先へ来ていることは、その物音でも呼吸でもお君にわかるのであります。こんな時には必ずムクにしかるべき意志があって来るのだから、前のお君ならば何事を措《お》いても障子をあけるのでしたけれども、今のお君はそれよりも、鏡にうつる己《おの》れの姿の方が大事でありました。
「ワン!」
 堪り兼ねたと見えてムク犬は、外で一声吠えました。吠えられてみるとお君は、どうしても障子をあけなければなりません。そこにはムク犬が柔和《にゅうわ》にして威容のある大きな面《おもて》を見せていました。
 お君の面を見上げたムク犬の眼の色は、早く私についておいで下さいという眼色でありました。
 それは何人《なんぴと》よりもよく、お君に読むことの出来る眼の色であります。
 お君はムクに導かれて、廊下伝いに歩いて行きました。
 これはこの前の晩の時のように、闇でもなければ靄《もや》でもありませんで、梅が一輪ずつ一輪ずつ綻《ほころ》び出でようという時候でありました。
 お君が、とうとうムク犬に導かれて、廊下伝いに来たところは米友の部屋でありました。そこへなにげなくお君が入って、
「おや、友さん」
と言いました。見れば米友はあちら向きになって、いま旅の仕度をして上《あが》り端《はな》に腰をかけて、しきりに草鞋《わらじ》の紐を結んでいるところであります。
 旅の仕度といっても米友のは、前に着ていた盲縞《めくらじま》の筒袖に、首っ玉へ例の風呂敷を括《くく》りつけたので、ちょうど伊勢から東海道を下った時、江戸から甲州へ入った時と同じことの扮装《いでたち》でありました。
「どこへ行くの、米友さん」
 お君は米友の近いところへ立寄りながら尋ねました。
 米友は返事をしませんでした。
「殿様の御用なの?」
 米友はなお返事をしません。返事をしないで草鞋の紐を結んでいます。
「どうしたの、米友さん」
 お君は後ろから米友
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