ままぷいと廊下の縁の下を潜《くぐ》り抜けて、どこかへ行ってしまいました。
 駒井能登守が役所へ出かけたそのあとで、お君は部屋へ行ってホッと息をついて、微醺《びくん》の面《おもて》を両手で隠しました。
 障子の外には日当りがよくて、ここにも梅の咲きかかった枝ぶりが、面白く障子にうつっています。
 お君は脇息《きょうそく》の上に両肱《りょうひじ》を置いて、暫らくの間、熱《ほて》る面を押隠していましたが、そのうちにウトウトと眠気がさしてきました。
「お冷水《ひや》を持って来て」
「はい」
 次の間で女中が返事をすると、まもなくギヤマンの美しい杯《さかずき》が蒔絵《まきえ》の盆の上に載せられて、若い女中の手で運ばれました。ギヤマンの中には玉のような清水がいっぱい満たされてあります。お君はそのお冷水《ひや》を口に当てながら、
「わたしは眠いから少し休みたい、お前、床を展《の》べておくれ」
「畏《かしこ》まりました」
「それから、あの犬に何かやっておくれかい」
「いいえ、まだ」
「忘れないように」
「畏まりました」
 女中が出て行った後で、お君は水を一口飲んでギヤマンを火鉢の傍へ置き、それから鏡台に向い、髪の毛を大事に撫で上げました。笄《こうがい》を抜いたりさしたりしてみました。紅《くれない》のさした面《かお》を恥かしそうにながめていました。こうしている間もお君は、自分の身の果報を思うことでいっぱいであります。女中のよく言いつけを聞いてくれることも嬉しくありました。鏡がよくわが姿をうつしてくれるのも嬉しくありました。撫であげる髪の毛の黒いことも嬉しくありました。笄の鼈甲《べっこう》から水の滴《したた》るようなのも嬉しくありました。面から襟筋の白粉も嬉しいけれど、胸から乳のあたりの肌の白いことも嬉しくありました。殿様の美男であることが嬉しくありました。自分を産んでくれた母の美しかったということも嬉しくありました。
「ムクかい、待っておいでよ」
 お君はこうして鏡台に向っていながらも、ツイその日当りのよい縁先へ、ムク犬が来たということには気がつきました。
 気がついたけれども、障子をあけて犬を見てやろうとはしないで、やはり鏡に向って髪の毛をいじりながら、そう言って言葉をかけただけであります。人の愛情は二つにも三つにもわけるわけにはゆかないのか知らん。能登守に思われてからのお君は、犬
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