た。
 蒲団の下から一包の紙、それは薬と覚《おぼ》しいのを取り出して、奇異なる武士が兵馬の口許へ持って来ました。
「まだ熱が高いな」
 片手では薬の包を持ち、片手では兵馬の額を押えました。
 兵馬は寝ていながら、口を開いてその紙包から薬を飲みました。
「ソレ水」
 枕許の椀を取って水を兵馬に飲ませました。兵馬は少しばかり起き直って、コクリコクリとその水を飲みました。
「気をつけて寝ておれ」
 奇異なる武士は、じっと兵馬の面《かお》を見つめています。
 火の気のない牢屋の中の夜のことであるから、尋常ならば、なにもかも見えないのであろうけれど、この奇異なる武士は暗い中でも、よく物が見えるようであります。
 兵馬もまた相当に暗い中で物が見えるようです。暗い牢の中に居つけたために、おのずから眼がそういうふうに慣らされたものでしょう。
 兵馬が寝ついたのを見て奇異なる武士は、また以前の座へ立戻り、何をしているのかと思えば、紙を裂いて、しきりに紙撚《こより》をこしらえているのであります。
 自分の蒲団は兵馬に着せてしまっているから、この武士の横たわるべきものはありません。半畳ほどの渋紙をしいてその上で、紙撚をこしらえて、眠いということを知らないもののようです。
 何十本かの紙撚をこしらえてしまうと、そこにはもはや紙撚にすべき紙がありません。その時この人の座右《ざう》の書冊、それは「安政三十二家絶句」というのを手に取ると、その中の紙をメリメリと引き破り、幾枚か引き破ってそれをまた細かにし、細かにしてまた紙撚をこしらえはじめたのであります。
 この人がこうして一心不乱に紙撚をこしらえていると、この室の一隅、兵馬の寝ている隅とは違ったところの羽目板が、微かな音でトントンと二つばかり鳴りました。
 羽目をトントンと叩いた音は、到底そのつもりでいなければ聞けないほどの微かな音でありました。けれども、紙撚をこしらえていた奇異なる武士は直ぐにそれを聞きつけて、坐ったまま耳をその羽目の合せ目の透間《すきま》へ着けてしまいました。
「まだ起きてか」
 これが次の室から聞えた小さな声でありました。
「起きてる、起きて一生懸命に内職じゃ」
 こっちの奇異なる武士は、そう答えてニヤリと笑いました。
「そうか、病人はどうじゃ」
「熱は高いけれど、生命《いのち》にかかわることはあるまい」
「大事にするがよい」
「せっかく養生中じゃ」
「それからな、今日は重大な音信《たより》を聞いたから、知らせる」
「左様か」
「今日は、おれの方に一人の新参《しんまい》があった、それは、贋金遣《にせがねづか》いとやらの罪で、この牢へ送られた男だが、その男から聞いた話だ」
「なるほど」
「長州では、いよいよ三人の家老を斬って、幕府にお詫《わ》びをすることになったげな」
「ナニナニ、長州で三人の家老を斬って幕府へお詫びをすると? そりゃ夢のような話だ、真実《まこと》とは聞かれぬ」
「どうも、拙者においても信じきれぬのだが、その男の言うことを聞いてみればマンザラ嘘《うそ》とは思われぬ、まあ聞いてくれ、こういうわけじゃ。長州藩では去年の八月、入京を禁ぜられてから、その許しを願うことと、それから例の七卿の復任を許されたいということで、さまざまに建言をするけれど更に御採用がない、この上は兵力を以て京都へ推参して手詰《てづめ》の歎願をするほかはないと、久坂玄瑞《くさかげんずい》、来島又兵衛、入江九一の面々が巨魁《きょかい》で、国老の福原越後を押立てて、およそ四百人の総勢で周防《すおう》の三田尻から、京都へ向って出帆したというものだ」
「うむ、うむ」
「そのほかに、久留米の神主で、あの慷慨家《こうがいか》の真木和泉《まきいずみ》が加わる、それから中山卿のお附であった池、枚岡《ひらおか》、大沢の三人――中山卿は長州で亡《な》くなられたそうじゃ。大和の十津川から浪華《なにわ》を経て、長州へおいでになったが、そこで亡くなられたということじゃ。まだ十九か二十のお歳であろうに、お痛わしいことな」
「そうか、中山侍従は長州で亡くなられたか」
「御病気で亡くなられたか、または不慮の御災難であったか、その辺は更にわからぬ。してその中山卿のお附であった池、枚岡、大沢の三人も加わってよ、浪華へ着くと、同藩の仲間や諸藩の脱走が走《は》せ加わったから、兵を二手に分け、一手は船で山崎から、一手は陸を伏見へのぼって行った。何しろ兵器を携《たずさ》え、旗を立て、隊伍を乱さず上って行くのだから、京都も騒がずにはいられないのじゃ」
「なるほど、なるほど」
「それにまた国司信濃や益田右衛門介らが鎮撫《ちんぶ》を名として馳《は》せ加わって、とうとう御所へ押しかけてしまった、そこで会津、一橋、薩州の兵を相手に、畏《かしこ》くも宮闕《きゅうけつ》の下を戦乱の巷《ちまた》にしてしまった」
「うむ、うむ」
「しかし、さすが命知らずの長兵も諸藩の矢に攻められて、来島又兵衛は討死する、久坂玄瑞も討死する、福原、国司、益田の三家老は歯噛みをしつつ本国へ引上げるということになって、その後が長州征伐の結末は、毛利公の恭順と、例のその三家老の首を斬って謝罪するということで納まったそうじゃ」
 これらの話し声は、極めて小さい声で行われましたけれども、平談俗語《へいだんぞくご》の通り、尋常に聞き且つ答えることができました。
 話をしている間も、見廻りの来る心配はありません。ここの牢番もよく見廻りをするよりも、よく眠りたい方です。
「ははあ、それは一大事じゃ」
と言って、こちらの奇異なる武士は考え込みました。
「これで長州も寂滅《じゃくめつ》」
 えたいの知れない話し相手も、絶望したような声で言いました。
「いやいや、そう容易《たやす》くはいくまいよ」
 こちらの奇異なる武士は、存外、平気で答えました。
「どうして」
「長州の中にも、二派あるはずじゃ」
「左様」
「そうして幕府に恐れ入ってしまうのもあるだろうが、なかなかそれで承知のできぬ奴もあるはずじゃ」
「左様」
「例の高杉|晋作《しんさく》がこしらえた奇兵隊というのがある、あの辺のところが黙って引込んではいまいよ」
「なるほど」
「君は高杉を知っているか」
「知らん」
「老物《ろうぶつ》は知らん、若手では、あれが第一の男よ。あれのこしらえた奇兵隊というのは、他藩には、ちょっと類のないものじゃ」
「うむ、うむ」
 さきには向うが話の主でこっちが聞き手でありましたが、今度はこっちが話し手で、向うが聞き手になりました。
「長州には奇兵隊があり、薩摩には西郷吉之助のようなのがある、長州が本気で立てば薩摩が黙っていない、薩摩と長州とが手を握れば天下の事知るべし」
「面白くなるのだな」
「それは面白くなるにきまっているけれど、おたがいに籠の鳥だ」
「南条――」
 ここで両人の話が暫らく途切れました。話が途切れると獄舎《ひとや》のうちは暗くありました。こちらの室では兵馬の寝息、あちらでは同じ室に、また幾人いるか知らん、鼾《いびき》の声を立てているのさえあるが、それをほかにしては、いよいよ静かなものであります。
 こちらの奇異なる武士は、いよいよ近く羽目の透間《すきま》へ耳をつけた時に、
「南条――南条」
と向うから呼びましたが、
「手を出せ」
「うむ、うむ」
 こちらの武士は、耳を着けていたところより一尺ばかり下の透間へ手を当てると、その透間からスーッと抜き取ったのは、柄《え》のない一挺の鑢《やすり》のようなものであります。
「これはどうしたのだ」
「今いう贋金遣《にせがねづか》いという男が、そっとおれにくれたのだ、同じやつがまだ一挺ある、鋸《のこぎり》と鑿《のみ》と小刀《こがたな》と三様に使える」
「エライものを手に入れたな」
「それこそ天の与え」
「有難い、有難い」
と言って、こちらの奇異なる武士は、その鑢《やすり》を推戴《おしいただ》きました。
 この時に牢番の小使が咳をしました。もう大抵、話すべき要領は尽きたと見えて、それを機会《しお》に話は切れてしまいました。
 牢屋の形式は厳重でありましたけれど、中の見廻りはさほど厳重なものではありません。
 牢番の小使の老爺《おやじ》に金をやって頼めば、大抵のものは調《ととの》えてくれます、羽目の間から物のやりとりや、小さな声で話をすることなどは、ほとんど自由です。
 宇津木兵馬は、ここへ囚《とら》われて来る時に金を持って来ませんでしたけれども、その後、誰ともなく金を差入れてくれるものがあると見え、その小づかいが二両三両と兵馬に手渡されます。それも五両差入れたものがあるとすれば、そのうち二三両ずつ、誰か頭を刎《は》ねる者があるらしくありました。
 誰が差入れてくれるのだか知らないけれど、兵馬はそれがために、大へんに便宜を得ました。望みの物を買ってもらうこともでき、同室の人に融通することもできました。多分、七兵衛の仕業《しわざ》でありましょう。
 その兵馬は不幸にして、このごろ熱に冒《おか》されています。そうして枕が上らないでいるのを、例の同室の奇異なる武士が介抱していました。この奇異なる武士は、兵馬よりは先にこの室に入れられていました。それと同室して語っているうちに、兵馬はこの奇異なる武士の奇なることを感ぜずにはいられません。

 今日は少し快《よ》かったから起きてみました。夜は早く床に就きましたが、よく眠れました。夜中になって、ふと妙な音が耳に入りましたから目を覚まして、音のする方を見て、我知らず身を起しました。兵馬は半身を起して、怪しげな音の耳ざわりになるところを見ると、同室の奇異なる武士が、格子によりかかって仕事をしているのを認めました。
 その奇異なる武士は、何かを以て、極めて小さな音を立てながら、牢の格子を切っているとしか見えません。言葉を換えて言えば、牢破りを企《くわだ》てつつあるとしか見えません。
 あまりのことに兵馬は、蒲団《ふとん》を蹴《け》って、よろめく足を踏みしめて立ち上りました。
「南条殿」
 兵馬はよろめきながら近寄って、牢の格子を切っている奇異なる武士の手を押えました。
「宇津木、起きてはいかん」
 奇異なる武士は、兵馬に押えられても、別段に驚きはしません。
「南条殿、何をなさる、軽々しいことをなさるな」
 兵馬はたしなめるように言いました。
「君の知ったことではない、身体に悪いから寝て居給え」
 南条と呼ばれた奇異なる武士は兵馬の手を取って、牢の格子の角の隅をさぐらせました。兵馬はそこへ手を当ててみると、何かの刃物でズーッと横に筋が切り込まれてあります。その切込みはまだそんなに深くはありませんでしたけれど、退引《のっぴき》ならぬ破牢の極印《ごくいん》であることは確かであります。
「ああ、大胆なこと」
と言って兵馬は嘆息しました。
「二番の室でも、これをやっている、成敗《せいはい》ともに我々が引受けるから、まあまあ安心して寝て居給え」
 奇異なる武士は騒ぐことなく、兵馬をなだめて、またも静かにその切込みへ刃物を入れました。その刃物というのは、前夜隣室の羽目の隙間から手に入れた鑢様《やすりよう》のものであります。兵馬は、その上にかれこれと言いませんでした。それは余人ならぬこの人が、かく決心して事をはじめた上は、いまさら自分が是非を論じても駄目だと思ったからであります。
「世が世ならばこんなことはしたくはないが、時勢を聞いてみると、どうしてもここに安んじてはいられぬのじゃ、文天祥《ぶんてんしょう》が天命に安んずるこそ丈夫の襟懐《きんかい》ではあるが、盗人の屋尻《やじり》を切るような真似をせにゃならぬのも時節。宇津木、君だからとて、そうそう正直に冤《むじつ》の晴れるのを待ってもいられまい。上に名判官ある世には、獄屋《ひとや》のうちにも白日の照すことはあろうけれど、ここらあたりでそれを望むは、百年富士川の流れが澄むのを待つのと同じこと」
 南条と呼ばれた奇異なる武士は、こう言いながら静かに、格子の角を引いているのであります。
 兵馬はぜ
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