ひなく寝床の方へ退きました。兵馬は蒲団を引被《ひきかつ》ぎながら、格子の角に引かれる鑢の微《ちい》さな音を聞いていました。
兵馬は正直な心で、今まで待っていました。己《おの》れの疚《やま》しいことさえなければ、泰然として待っているうちに、天は必ず己れを助くるものだと信じていました。非法に囚われたけれど、自分は法を犯してそれを逃れようとはしませんでした。しかし今という今、その心に動揺が起らないわけにはゆきません。
七
駒井能登守は例の洋風に作った一間に籠《こも》って、このごろは役所へもあまり出勤せず、また調練も暫らく他の者に任せておきました。
この一間に籠った能登守は、人を諸方に遣《つか》わして土を集めさせています。自分もまた、思い立ったように外へ出ては土を集めて来るのであります。
集めた土を分析《ぶんせき》したり、また火にかけたりして験《ため》すことに、ほとんど寝食を忘れるくらいの熱心でありました。
能登守が預かって、城内の調練場で扱っている虎砲《こほう》十二|磅砲《ポンドほう》というようなのは、伊豆の江川の手で出来たものであります。伊豆の江川は能登守と同じく、高島四郎太夫を師とするものであります。能登守は甲府へ赴任の最初から、ここへひとつ、江川と同じようなものを建てたいと思っていたのでありました。それは自身で研究して自身で造り出した砲でなければ満足のできないほどに、能登守の砲術の愛好心は嵩《こう》じているのであります。
江川太郎左衛門が伊豆の韮山《にらやま》に立てたのは有名なる反射炉であります。江川がその反射炉を立てる時に最も苦心したのは煉瓦《れんが》でありました。煉瓦を作る土でありました。当時、外国から取り寄せることのできないために、江川はまず煉瓦から焼いてかからねばなりませんでした。その高熱に耐える煉瓦を焼くべき、土から求めてかからなければなりませんでした。
江川はようやくにしてその土を、天城山《あまぎさん》の麓と韮山附近の山田山というところから探し出して、煉瓦を作りました。その煉瓦は立派なものでありました。今日の進歩した耐火煉瓦に劣らぬほどの煉瓦を、当時、独創的に作り出したものであります。耐火試験によって、千七百度の高熱に耐えるということであります。千七百度の熱度は、白金の溶解度であります。
能登守は江川のその苦心を見もし聞きもしました。土を集めてそれを調べていることは、やはり同一の目的のためと見てよいのであります。その研究の間は誰人をもこの室に入れることを避けて、眠ることも、ほとんどこの椅子と卓子《テーブル》とに凭《よ》ったのみでありました。疲れた時は夜となく、昼となく、うつらうつらと眠るのでありました。覚めた時は書物と実物とを向うに首っ引きでありました。
今も疲れて能登守は、椅子に深く身体を埋めて眠っていました。その時に扉が静かにあいて、
「殿様」
扉の前に立っているのはお君でありました。
お君は、大名や旗本の家へ仕える女中のように拵《こしら》えています。お松とは年の頃合いは同じくらいでありましたけれど、お松は肉附のよい、どこかに雄々しいところのある娘でありました。お松に比べると、お君はもういっそう色白で、繊細《きゃしゃ》で、沈んだ美しさを持っていました。
「殿様」
と言って、そっと扉をあけたお君は、椅子に凭《よ》ってスヤスヤと眠っている能登守の姿を見て、嫣然《にっこり》として、音を立てないようにその傍へ近づいて行きました。
能登守はよく眠っていて、お君の入って来たのに少しも気がつきません。お君は、能登守の椅子に近いところまで来て、主人の寝顔の前に立っていました。
この数日、主人の髪も乱れているし、それに寝ている面《おもて》にも窶《やつ》れが見えていました。心配そうに見ていたお君は、
「殿様」
やや大きい声でふたたび呼んだ時に、能登守は眼を覚まして、
「あ、お前か」
と言って莞爾《にっこり》として、敢《あ》えて咎《とが》めることをしませんでした。お君が給仕としてこの室に入ることを許されている唯一の者であります。
「よく、お寝《よ》っておいであそばしました」
お君はこう言いました。
「あ、ついうとうとと寝入ってしまった」
能登守は椅子に埋めた身体を、少しばかり起そうとしました。
「あの、お客様でございますが」
とお君が言いました。
「客?」
能登守は小首を傾《かし》げて、
「言うておいた通り、この仕事をはじめてからは、来客に会いたくない」
「強《た》ってお目通りを致したいと、そのお客様からのお願いでございます」
「それは誰じゃ」
「女の方でございます」
「女の……」
「はい、神尾主膳様の御別家のお方と申すことでございまする」
「ははあ」
駒井能登守は、直ぐにそれと頷《うなず》くところのものがありましたが、
「どのような用向か知らん、わしは会いたくない、誰か会ってもらいたい」
会うことを多少迷惑がるようであります。
「それでも殿様に、直《じか》にお目通りを致さねば申し上げられないことなのだそうでございます。それがため、小島様も服部様も、わたしにお殿様へお取次ぎ申してみるように、お頼みでございました」
「はてな」
能登守は、その晴れやかな面《おもて》を少しく曇らせました。
「ともかく、あちらへお通し申しておくがよい、暫らくの間お待ち下さるようにお断わりをして」
「畏《かしこ》まりました」
「それから、お前は、わしの羽織だけをここへ持って来てくれるように」
「畏まりました」
お君は旨《むね》を受けてこの一間を出て行きました。能登守はその後で腕を組んで考え込んでいましたが、
「ははあ、そうじゃ、忘れていたわい、例の神尾が嫁を貰いたいということであろう、あの一件で例の婦人が出向いて来たものと見ゆるわい――筑前殿からも内談があったのだが、あれは、まだ拙者には解《げ》せぬことがある故に、なんとも返事をせずにおいた。事実、神尾があの縁組みを本気でするか、それとも一時の策略か、その辺を、もう少し確めてみぬことには……」
駒井能登守は、こんなことを思いつきました。そうして独言《ひとりごと》のように、
「しかし神尾は小人じゃ、まんいち拙者が故障を言えば、きっと拙者を恨むに違いない、恨まれるのは苦しくないが、何も知らぬ処女《おとめ》が、悪い計略に落ちるようじゃと気の毒の至り」
こんなことを胸に問い答えている時に、お君が羽織を入れた黒塗りの箱を捧げて来ました。能登守が筒袖の羽織の紐を解くと、お君はその後ろに廻りました。それを黒の紋付の羽織と着替えさせて、お君はその筒袖の羽織を畳みかけました。
能登守は着替えた羽織の紐を結ぶと、お君は、
「殿様、あの、お髪《ぐし》が乱れておいであそばしまする」
と言いました。
「うむ、それもそうじゃ」
お君は、筒袖の羽織を畳んでいた手を休めて、鏡台を卓子《テーブル》の上に立てました。その鏡は隅の棚の上に置かれてあった、これは洋式のものではなく、磨き上げた丸い鏡でありました。
お君はこうして能登守のために乱れた鬢《びん》の毛を撫でつけながら、その鏡にうつる殿様のお面《かお》を見ると、恥かしさで手先がふるえて、自分の面が火のようにほてるのに堪えられません。
駒井能登守は客間でお絹と対坐しております。
それは日本式の客間で、二人の間には桐の火桶が置いてありました。お絹は、いつぞやの甲州道中のお礼などを述べました。そうして後に、お絹が言い出したことは案の如く、神尾主膳のこのたびの縁談のことでありました。
「神尾も、ああして置きますると我儘《わがまま》が募《つの》って困りまする、わたしが参りましたのをよい折に、ぜひこの縁談だけは纏《まと》めて帰りたいのでございまする。筑前様にも、このことを大へんおよろこび下さいました」
こういう話でありました。能登守はそれを聞いて、
「それは慶《めで》たいことでござる、左様な慶たいことを何しに拙者において異議がござりましょう。して、先方のお家柄は?」
穏かにこう尋ねたのでありました。
「先方は、有野村の藤原の伊太夫の一の娘にござりまする」
「有野村の伊太夫の娘?」
「左様でござりまする」
「なるほど」
能登守は暫らく考えている風情《ふぜい》でありましたが、言葉をついで、
「あれは聞ゆる旧家でありましたな」
「仰せの通り、家柄では多分、この甲州に並ぶ者がなかろうとのことでござりまする」
お絹はやや誇りがおに答えました。
「その通り、伊太夫は拙者もよく存知の間柄、その家柄もよく承っているが、その息女にはまだお目にかからぬ」
「常には、あまり人中へ出ることさえ嫌うような娘でありましたが、このたびの縁談は、その当人が進みましたものでござりまする」
「それは何よりのこと。この縁談の仮親《かりおや》はどなたでござりまするな」
「仮親と仰せられまするのは?」
「神尾家と藤原家とには聊《いささ》か家格に違いがござるようじゃ、藤原家の息女が神尾家へ御縁組み致すには、仮親をお立てなさるが順序と考えられるが」
「恐れながら、家格の違いと仰せでござりまするが、あの伊太夫が家は、御承知の通り、葛原親王《かつらはらしんのう》いらいの家柄と申すことでござりまする、それに権現様以前より苗字帯刀《みょうじたいとう》は御免、国主大名の系図にも劣らぬ家柄でござりまする故に、神尾家にとって釣合わぬ格式とは存じませぬ」
お絹は、こう言って能登守から、家格の相違ということを言われたのに弁解を試みました。
「いやいや、そのことではない。およそ旗本の家が縁組みをするには、同じ旗本のうちか、或いは大名の家よりするか、さもなき時はしかるべき仮親を立てるが定め、その辺は御承知でござりましょうな」
「それは……」
と言ってお絹は、ややあわてました。
「まだそれまでには運んでおらぬのでござりまする……」
お絹が、それについてなお何かを弁明しようとする、その言葉の鼻を押えるように、能登守が、
「左様ならば取敢《とりあえ》ず、そのことをお取定《とりき》めあってしかるべく存じまする」
と言ってしまいましたから、お絹は二の矢が次《つ》げないようになりました。
「御親切のお心添えを有難く存じまする、よく主膳にも申し聞けました上で……」
お絹はこう言って辞して帰るよりほかはありません。能登守の言い分は正当であるにしても、せっかく使者に来たお絹にその言い分が快い感じを与えることができませんでした。ましてやこれが神尾主膳の耳に伝わる時は、憎悪となり怨恨《えんこん》と変ずることは目に見えるのであります。
八
神尾主膳はその晩、一人で躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷を訪ねました。酔っているもののように足許がふらふらしています。
「机氏、机氏」
いつも竜之助のいる屋敷へ、そのふらふらした足どりで入って来たけれども、そこに竜之助がいませんでした。
「竜之助殿、どこへ行った」
と言いながら、そこへドカリ坐ってしまい、それから酔眼を据《す》えて室内を見廻しました。
例の通り、丸行燈《まるあんどん》に火が入っているにはいたけれども、それは今や消えなんとしているところであります。
「いやに暗い火だ、明るくない燈火《ともしび》だ、もっと明るくなれ、明るくなれ」
主膳は燈火に向って、こんなことを言いました。その舌の縺《もつ》れ塩梅《あんばい》を見れば、かなりに酔っていることがわかります。
「誰もおらぬか、誰ぞ来い、あの燈火をもっと明るいように致せ、こんなにして燈心を掻《か》き立てるがよい、燈心を掻き立てさえ致せば、火はおのずと明るくなるのじゃ、早う致せ、誰もおらぬか、誰ぞ来い来い」
怪しげな呂律《ろれつ》で取留まりもなく言いました。そうして酔っぱらい並みに頭をグタリと下げたり、怪しげな手つきをして、その手をすぐに膝の上へ持って来て、狛犬《こまいぬ》のような形をしたりしていました。
「うむ、よし、誰も来ないな、来なければこっちにも了見が
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