はなおさらにわかりませんでした。
 いろいろと、わからないことはありましたけれども結局、お君はお銀様の同情者でありました。お銀様がああして焦《じ》れておいでなさる心持も、お君には我儘《わがまま》だとばかりは思われませんでした。お銀様と幸内との間は知らないけれど、幸内がいなくなってお銀様が一層焦れ出したことは、側についていて手に取るようにわかるのでありました。その後お銀様がお君を愛するために、怖ろしいような挙動をなさることも度々ありました。今やそのわたしもお側を離れてしまう。お銀様はお一人。どうかこの上ともお仕合せにお暮しなさるようにと、お君は目に涙を持って、心のうちに祈りました。

         五

 神尾主膳の邸ではこの頃|普請《ふしん》が始まりました、建増しをしたり、手入れをしたりするために、大工や左官が幾人も入りました。
 表の方では鑿《のみ》や鉋《かんな》の音で景気がいいし、奥の方は奥の方でまた、箪笥《たんす》、長持、葛籠《つづら》の類を引き出して女中たちが、虫干しでもするような騒ぎであります。
 正月が近いから、それで御普請をなさるのだろうと表の方では言っていましたけれど、奥の方はそれだけでは納まりません。
「近いうちにお慶《めで》たいことがおありなさるんですとさ」
 早くも女中たちの口から、こんな噂《うわさ》が立ってしまいました。
 その女中たちの中にはお松がいました。お松は今、箪笥から掛物の一幅を取り出して塵《ちり》を掃《はら》っていました。
「お慶たいこととはどなた」
「お松様はまだ御存じないの」
と言って、ほかの女中たちは面を見合せました。
「いいえ、存じません」
「そのお慶たいことで、あんなに御普請が始まったり、こちらではまた御宝物のお風入れがあったりするのではありませんか」
 女中たちはお松の迂闊《うかつ》を笑うような言いぶりです。
「それでも、わたくしは存じませんもの」
「それはね」
「はい」
「つい、この近いところよ」
「近いところとは……」
「近いと言ってもこの甲府に近いところ、それはこれから三里ばかり離れた有野村というところの大金持のお家から、近いうちに殿様へお輿入《こしい》れがあるんですとさ」
「それは結構でございますねえ」
 お松は手に持っていた掛物の塵を掃ってその紐を解きました。なにげなくあけて見ると、それは山水でも花鳥でもなく、一枚の絵図面を仕立てた横幅《よこふく》でありました。
 神尾主膳の家に慶《めで》たいことがあるといっても、それはお松が知ったことではありません。
 けれども、このたびの慶事の噂が、お松の耳にはあまりに突飛《とっぴ》に聞えたものですから、多少考えさせられないわけにはゆきませんでした。
 今まで放蕩無頼に身を持ち崩して、いったん持った奥方を去ったという主膳が、今になって女房を迎えようとする心持がお松にはわかりませんでした。それから、この殿様を夫に持とうという女はどういう人であろうか、その人の気も知れないように思いました。
 慶《めで》たいことだから祝わねばならぬけれども、お松の常識で考えては、この結婚がどうも末頼《すえたの》もしくは思われません。どうしても一時の権略のための結婚であるとしか思われないのであります。
 どうしても、お気の毒なのは、こちらへ貰われて来る嫁御寮《よめごりょう》だと思わないわけにはゆきません。
 このお屋敷の殿様が、どういうお方であるかまるきり知らずに、ただお殿様という名前に惚《ほ》れて、可愛い娘を手放す親御たちをもお気の毒と思わないわけにはゆきません。
 人の慶《めで》たいことを呪うような心を起すのは浅ましいとは知りながら、お松はこの慶たい噂を慶たからず思いました。
 それはそれとして、お松がいま持って出た掛物は甲府のお城の絵図面であります。今日、宝物の風入れに、お松はそれとなくこの絵図を心がけていました。塵を掃っている数多《あまた》の書物や掛物のなかにはそれがあるだろうと思っていましたが、幸いにそれを見つけました。
 仕事が済んでから、お松はその絵図を持って自分の部屋へ帰りました。部屋へ帰ってそれを拡げて、つくづくとながめていました。
 お松のながめている絵図には、甲府城を真中にして、その廓《くるわ》の内外の武家屋敷や陣屋、役宅などが細かに引いてありました。
 お松の眼はお城の濠に沿うて東の方の一角をじっと見ていました。ほかのところはさしおいて、その一角ばかりを見つめていました。お松の見つめている一角というのは、お濠を隔ててお城と、お代官の陣屋との間に挟まれたところで、そこには罪人を囚《とら》える牢屋があるのであります。聞いてもいやな感じのする牢屋、お松はそれを見たいばかりに、わざわざこの絵図をそっと持ち帰ったのであります。牢屋を見たがるお松は、牢屋の中に見たいと思う人があるからであります。
 その人のために、お松はどのくらい心を痛めているか知れません。お絹を通したり、自分で遠廻しに頼んだりして神尾に縋《すが》りました。ここへ来る道中では駒井能登守にさえも訴えてみました。
 けれども、その証拠が歴然たる上に、御金蔵破りのことが重いので、ともかくも本当の犯人が挙った上でなければ、冤罪《えんざい》が晴れまいということを聞かされて、お松の失望落胆は言うべくもありません。
 せめて牢屋の模様でも知っておきたいと、お松はその道筋を幾度か指で引いてみました。けれどもそれは徒事《いたずらごと》で、お松の力でどうしようというのではありません。自分の力でどうしようというわけにはゆかないものであると知りながら、お松は人の力の恃《たの》みにならないことをもどかしがって思案に暮れました。
 ここは神尾の本邸とは別に一棟をなしているところの別宅であります。その一間に、お絹は取澄まして一人の男のお客を前に置いて話をしていました。
 お絹の前に坐っている男の客というのは役割の市五郎です。
「御別家様、まず以て滞《とどこお》りなく運びましてお慶《めで》とう存じまする。御結納《ごゆいのう》はこの暮のうちに日を択《えら》んでお取交《とりかわ》しなさいますように。お婚礼は来春になりまして花々しく」
 市五郎が言葉を恭《うやうや》しくこう言いますと、お絹も喜ばしそうに、
「お前さんの橋渡しで都合がよく運びました、これでわたしもワザワザ甲府へ来た甲斐《かい》があると申すもの、主膳殿もこれから身持ちが改まって出世をすることでしょう、三方四方|慶《めで》たいこと」
と言ってお絹は市五郎の労をねぎらいました。市五郎は額《ひたい》を叩いて、
「まことにハヤ慶たいことで。なにしろ、先方が聞えた旧弊の家柄でございますのに、当人がまたばかに気むずかしいものでございますから、どうなることかと心配しておりましたが、幸いなことに、その当人が乗気になりまして、それで話がズンズンと進んで参りました……しかし御別家様」
 市五郎が呑込んで話しているのは、例の縁談の一件であります。
「御別家様」
 市五郎はお絹を呼ぶのに御別家様の名を以てして、
「お媒妁人《なこうど》はどなた様にお頼みあそばしますおつもりでございますな」
「それは……あの御支配のお二方のうち、筑前様と能登様といずれかにお頼み致すよりほかはなかろうと思っておりまする。また別に組頭や奉行衆のうちにしかるべきお方があれば、その方へお頼みすることにしてもかまいませぬ」
「左様でございますな、お組頭やお奉行衆のうちで……それも結構でございますが、御当家様のお媒妁としては、やはり御支配様をお頼みになるのが順当でございましょう。その御支配様と申しましても、能登様は御新任の上に、お年もお若いし、それに奥方様をお連れになりませぬ故、やはりお年と申しお二方のお揃いと申し、筑前様をお頼みあそばすが至極よろしいことのように存じまする」
「わたしもそう思いまする。それに主膳殿は能登様とは合いませぬ」
「左様……」
「もとは同じぐらいの格式の旗本、それで同じところへ勤めていると、若い同士でどうも気拙《きまず》くなって困ります」
「けれども能登様へも、一応のお話は申し上げませんと」
「それは筑前様の方を、よくよくお頼み申しておいて、お話をきめた上で能登様へは一通りの御挨拶だけにしておきたいと、主膳殿も申しておりました」
「左様でございますな……あれで能登様もなかなか肯《き》かぬところがおありなさるから、万一、この縁談に……そんなこともございますまいが、能登様から故障が出るようなことがございますると……」
「それだから、最初に筑前様の方を纏《まと》めておけばよいではありませぬか。その筑前様へのお使は、わたしが行って、きっと纏めて参りましょう」
「左様ならば大丈夫でございます、御別家様から懇《ねんご》ろにお頼みになりますならば、大丈夫でございます」
 市五郎はそこへ仰山《ぎょうさん》らしく保証をおいて、お暇乞いをして帰ろうとすると、
「まあ、よいではないか、前祝いに何か差上げたいもの……お松や、お松はおらぬかいな」
 お絹は市五郎を引留めてお松の名を呼びました。
 お絹から呼ばれてお松はその席へ出ますと、
「こっちへお入り」
 お松はしとやかに座敷の中に入りました。
 そこでお絹はお松を市五郎に引合わせると、市五郎は遽《にわ》かに膝を揃えて座を下り、
「これはこれは初めまして、わたくしが市五郎めにござりまする、どうぞお見知り置かれて」
と非常に低く頭を下げましたから、お松はそれに準じて丁寧に挨拶をし、
「行届かぬものでござりまする、なにぶんよろしく……」
と両手を揃えて言いました。
 近づきが終ってから市五郎は卑下《ひげ》と自慢とをこき交ぜて、自分がこの土地に長くいることだの、折助や人足、それらの間における自分の勢力が大したものであること、御支配をはじめ重役の間にて自分の信用が多大であるということ、そんなことを、それとなく言っているが、お松には聞き苦しいほどであるのに、お絹は上機嫌で、
「お松や、お政治向きのことは別にして、そのほかのことならこの人が何でも心得ているから、お前、何か頼みたいことがあるなら、遠慮なくこの人に片肌脱いでおもらい」
とまで言いました。
 お松が自分の部屋へ帰った後も市五郎は、お絹の許を辞して帰る模様がありませんでした。しばらくたつと、その座敷が陽気になって、盃のやりとりにまで進んでいったようであります。根岸へ引籠った時分には一層慕わしく思われたお師匠様が甲府へ来ると、またがらりと変ったように思われるのがお松には浅ましい。誰とでも容易《たやす》く懇意になってしまって、ああして気を許すお師匠様の挙動がお松には歎かわしい。

         六

 甲府の牢屋は甲府城の東に方《あた》ってお濠と境町の通りを隔てて相対し、三方はお組屋敷で囲まれている。そのお組屋敷の東は御代官の陣屋になっているのであります。
 宇津木兵馬の囚《とら》われているのは、その牢屋の中の一番室で、それは六畳敷でありました。その六畳の中には兵馬と、そのほかに一人の奇異なる武士が囚われています。
 この室の中の南と北は格子であります。東と西は羽目《はめ》であります。
 宇津木兵馬はその羽目の方の一隅に寝ています。もう夜が更けているから牢の中は真暗であります。兵馬は寝入っている様子だけれども、同室のもう一人の奇異なる武士は、まだ起きていて暗い中で何をかしているようです。
 その武士は三十前後の歳で、総髪にして髪を結んで後ろへ下げています。
「うーん」
というて苦しげに呻《うな》るのは寝ている宇津木兵馬の声で、それと同時に寝返りを打とうとするらしい。
「宇津木、苦しいか」
 奇異なる武士は声をひそめてこう言いますと、
「いや、別に」
と兵馬は、これも、ひそかに答えました。けれどもその返事は、苦しさを耐《こら》えている返事です。
「もう一服、飲んでみるか」
と言って奇異なる武士が、兵馬の枕許まで来て、蒲団《ふとん》の下を探ります。
「うーん」
と兵馬はまた苦しげに呻りまし
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