けようという取持ちであることに疑いもない――人もあろうに神尾主膳へ、そして女もあろうにお銀様を――市五郎の内心は計りがたないものであります。しかしながら市五郎の口前は極めて上手であります。神尾主膳の人柄を、伊太夫の心へ最もよくうつるように言葉を尽して、蔭と日向《ひなた》から説きかけました。そうして苦労人の神尾様は決して御縹緻好《ごきりょうごの》みをなさるようなお方でなく、お嬢様があんな不仕合せでおいでになっても、それがために愛情を落すようなお方でないということ、かえってお嬢様のお身の上を蔭ながら同情をしているというようなことを言葉巧みに説きました。その上に当地の有力者であるこの藤原家と縁を結ぶことが、神尾のためには有力なる後援であり、お嬢様のために生涯の幸福であり、且つまた若い神尾主膳はやがて甲府詰から出世をなさる人に疑いのないことなども話しかけました。市五郎のこのごろの信用の上に、その口前によって伊太夫の心がだんだん動いて来るのが眼に見えるようであります。
 市五郎がこの縁談のことを話して辞して帰った後で、伊太夫は一人でやはり腕を組んで考えていました。もとは何千石のお旗本、今は甲府勤番の組頭、それにあの娘が貰われて行くことは、家にとって釣合わぬことではないと思いました。しかしながら、あの娘――と思い出すと、さすがの伊太夫も自分ながら気落ちがしてなりません。お旗本どころではない、どんな人でもあの娘を貰って、生涯の面倒を見てくれる人があるなら大恩人だと、日頃から思わせられないことではありません。娘もよくそれを呑込んで、つまらぬ男に侍《かしず》くよりは、いっそ独身で通す覚悟をきめているのを見て、親としての伊太夫が、不憫《ふびん》に思わぬということもありません。
 伊太夫は、なお暫く考えた後に女を呼んで、
「お銀にここへ来るように」
と言って、
「あれが何と言うか、あれのことだからウンとは言うまい、たとえ少しは気があっても、はいと返事をするような女ではないけれども、もし承知したら……あれが承知をしたら、わしの方にも異存はないのだが、しかし、それがほんとうに当人のために仕合せかなあ。あれはああしておいた方が仕合せであるかも知れない。まあまあ了見《りょうけん》を聞いてみての上で」
 伊太夫はこんな独言《ひとりごと》を言って考えながら、お銀様の来るのを待っていました。
 父の許へ呼ばれたお銀様は、やがて自分の部屋へ帰って来ました。
 お銀様は、父から言い出されたことをだまって聞いて帰りました。父が言い出したことというのは、神尾主膳への縁談の一件でありました。お銀様はそれを聞いてなんとも返事をしませんでした。
 嘘《うそ》にも縁談のことは若い人の血汐《ちしお》を躍《おど》らせねばならぬものであります。けれどもお銀様にあっては必ずしもそうでありません。お銀様がだまって父の許から己《おの》が部屋へ帰ったのは、そのことの恥かしさから返事ができないで帰ったのではありません。
 いつも怒気を含んだようなお銀様の面《かお》が、一層の怒気で曇って見えました。父のものやわらかな話半ばで、ついと立って挨拶もなくて立ちかえったその畳ざわりは荒いものでありました。父の伊太夫は、
「ははあ、また失策《しくじ》った」
というような面をして、立って行く娘の後ろ姿を空《むな》しく見送っているばかりであります。
 お銀様が縁談を嫌うのは今に始まったことではありません。そのことを言い出されるのさえ、毒虫に触れることのようにいやがりました。お銀様は自分の身にかかる縁談のことを聞くのをいやがるばかりでなく、人の縁談のことを聞くのさえいやがりました。その話を聞くと、ジリジリと焦《じ》れてゆくのが目に見えるのであります。それだからお銀様の前で縁談を言うものはありません。お君も近ごろ来て、その呼吸をよく呑込んでおりました。父の伊太夫ももとよりそのことを知っていたけれども、市五郎の口前を信ずるの余りに、つい口に出してしまって、また娘の御機嫌を損ねたことに気がついて、気まずい思いをして空《むな》しく見送るばかりでありました。
 お銀様は縁談を持ち込まれることを、自分が侮辱されたように口惜しがります。それと共に自分に縁談を申し込んで来る男を、あくまで蔑《さげす》むのでありました。自分に縁談を申し込んで来るような男は、男のなかのいちばん意気地なしで恥知らずで、あるものは慾ばかりで人格も趣味もあったものではない、男のなかの屑《くず》だと、口に出してまでそう言うことがありましたくらいであります。
 今、神尾主膳のことを聞いても、まずその蔑みで頭を占領されてしまって、これから父が説き出そうとすることを、受入れる余裕はありませんでした。
 お銀様は凄《すご》い面をして自分の部屋へ帰って来て、
「お君、お君、お君や」
 続けざまに呼んで、自分の部屋を素通りして、お君の部屋へ駈込みました。
 お気に入りのお君には、お銀様と同じような部屋が与えられてありました。このごろのお銀様は、居間から衣裳から、室内の飾り、すべてのものをお君と同じようにしなければ納まらないのであります。お銀様はこうしてお君の部屋へ駈込んだけれど、どこへ行ったかそこにお君の姿が見えません。机の上にお銀様の好きな寒椿《かんつばき》が一輪、留守居顔にさされてあるばかりです。
「どこへ行ったのだえ」
 お銀様は、お君の坐るべき蒲団の上に坐って机に向いました。その一輪挿しの寒椿を取っておもちゃにしようとした時に、机の上に見慣れないものが載せてあるのを見ました。お銀様は一輪挿しの寒椿の方はさしおいて、その見慣れないものを手に取りました。
「まあ、これは珍らしいもの」
と言って、つくづく眼を注《そそ》いだのは一枚の写真でありました。その写真は、先日お君が駒井能登守からいただいて来た、何よりも大切にしている二人立ちの写真なのであります。
 最初はただ物珍らしげに取り上げたお銀様が、それをつくづくと見ているうちに、体がワナワナ震えてきました。眼がキラキラと光ってきました。
「アア、口惜しいッ」
 鬼女《きじょ》が炎をふくように言い捨てました。
 その写真には前に言った通り、二人の人が写されているのであります。
 その一人はお銀様もよく知っている駒井能登守の像《すがた》でありました。それと並んだ一人は女の像でありました。
「いつのまに、こんなことに……ああそうだ、この間、お城の前で、わたしを待たせている間に、わたしは、あんな恥かしい目に遭っている時に、お君は城の中でこんなにしていたのか。それとは知らなかった」
 お銀様は、その女の方の像を見ながら歯を咬鳴《かみな》らしました。
「この若い御支配の殿様と、あの奥方気取りで……憎らしいッ」
 お銀様は頭を自棄《やけ》に振って、銀の簪《かんざし》を机の上へ振り落しました。振り落したその簪をグイと掴んで、呪いの息を写真の面《おもて》に吹きかけました。
 お銀様の呪いの的《まと》となっている写真の中の女の像、それは裲襠姿《うちかけすがた》の気高い奥方でありました。美男の聞えある能登守と並んだこの気高くて美しい奥方。お銀にとってそれは、骨を削ってやりたいほどに呪わしいものでなければなりませぬ。
 ことに、あのお濠《ほり》の外で、折助どもからあんな無礼な仕打をされている時に、城の中で二人にこんなことをされては……それが口惜しくて、嫉《ねた》ましくて、腹立たしくて、呪わしくて、お銀様の銀の簪持った手がワナワナと慄《ふる》えて慄えてたまりません。
 お銀様はその写真を左の手で持ち直して、右の手で銀の簪を取り直して、
「エエ、覚えておいで」
と言ってズブリ――その女の像《すがた》の面をめがけてつきとおそうとしました。
「お嬢様、まあ何をなさいます」
 あわてて入って来たお君は飛びついて、銀の簪を持ったお銀様の手をしかと抑えました。
「お放しなさい」
 お銀様はお君の抑えた手を振り切って、なおもその写真につきとおそうとするのであります。
「このお写真は、大切のお写真でございます、お嬢様、そんなことをあそばしては」
「それはお前には、お前には大切なお写真であろうけれども……」
「このお写真に間違いがあっては、私が殿様に申しわけがありませぬ」
「そりゃ、そうだろう、お前は殿様に申しわけがあるまいけれど、わたしはばかにされたのが口借しい!」
「何をおっしゃいますお嬢様、そのお写真ばかりはどうしても御自由におさせ申すことはできませぬ」
 お君は日頃に似気《にげ》なく争いました。お銀様はほとんど狂気の体《てい》で写真を遣《や》らじとしました。一枚の写真を争う両人《ふたり》は、ほとんど他目《よそめ》からは組打ちをしているほどの烈しさで揉み合いました。
 そうしてお君は、やっとお嬢様の手からその写真を取り上げて、太息《といき》を吐《つ》きながら、
「お嬢様、こんな乱暴をあそばしますなら、もうもう、わたしはお嬢様のお側にいるのはいやでございます、今日限りお暇をいただきまする」
「ああ、それがよい、わたしも、もうお前がいなくてもよい、お前はその可愛い殿様のところへおいで、わたしもお嫁に行くところがあるのだから、ええ、わたしはお嫁に行くようにきめてしまったのだから」
 お銀様がこう言ってその両眼から留度《とめど》もなく涙を落した時に、お君は何と言ってよいか解らない心持になりました。
 いつもならば何でもないことでしたろうけれど、その時はそれで、二人のなかが割《さ》かれてしまいました。お君が、もうお嬢様のお傍にいないと言ったのは一時の激した言い分のようであったが、実は本心からその気で言ったのであります。
 お銀様が、自分もお嫁に行くところがあると言ったのは、どういうつもりだかお君にはわかりませんでした。
 しかし、その場は気まずくなって、今までになかった張合いの心持がおたがいに募《つの》ったけれど、すぐにあとでお君が謝罪《あやま》りました。お銀様もうちとけました。
 謝罪ったあとで、お君は改めてお銀様にお暇乞いを申し出でました。お銀様は冷やかに、それでも快くお君の暇乞いを承知しました。それにお銀様はお君に対して、身の廻りのものやらお金などを多分に分けてやりました。お君はそれを有難く思って、なんとなくこのお嬢様の傍を離れたくない心持もしましたけれど、自分の行く先のことを考えれば、その心持も忽ち消えてしまうのであります。
 お君がこのお嬢様の許《もと》を辞して行こうとする先は問うまでもなく、それは駒井能登守のお邸であります。
 主人やお銀様からいろいろの下され物をお伴《とも》の男に馬につけてもらって、お君は愛するムク犬と共に藤原家を離れました。
 みんな機嫌よくお君を送ってくれました。
 有野村から甲府まで行く間に、お君は一足毎に春の野原へ近づいて行く心持でありました。駒井の殿様のお情けというものが嬉しくて、心が溶《と》けてゆくばかりでありました。それでも釜無河原《かまなしがわら》へ来た時分に振返って有野村を見ますと、小高い丘の下に一面に黒くなった森、そこが今まで世話になっていた馬大尽の藤原の家の構えだと知った時に、なんとなく四辺《あたり》の光景が物悲しくなりました。
 幸内に助けられてあの家へ厄介になったかりそめ[#「かりそめ」に傍点]の縁が、思い出にならないということはありません。その幸内は行衛《ゆくえ》が知れないし、それよりもひとり残ったお嬢様が、「わたしもお嫁に行く」と言った一言は今でもお君にとって、何の意味だかよくわからないのであります。
 いったいにお銀様の心持というものは、お君にはよくわかりませんでした。駒井様で所望する自分の身の上をお銀様が途中で、水を注《さ》そうとするような仕打がわかりません。そうかと思えば、そのお暇乞いをした時に冷やかではあったけれど、不快な色を見せないで承知をして下すったこともわかりません。
 自分をすすめて御城内の殿様のところへやりながら、その殿様のお写真に向って、あんなことをなさるお嬢様の気心
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