寒い思いをしたのとが儲けもんで、風邪を引いたのが利息だ、ばかばかしいっちゃあねえ」
「ははははは」
折助どもは、愚痴を言っている折助を笑いました。
「いったい親方は、あんな狂言をして、あんな化物娘を引張り込んでどうする気だろう、姉御の縹緻《きりょう》だってマンザラではねえし、どうも役割の気が知れねえ」
「そりゃお前、なんだな、あれはおトリ[#「トリ」に傍点]というものさ。あれをああしておトリ[#「トリ」に傍点]にしておけば、それ案《あん》の定《じょう》、あとから音色《ねいろ》のいいのがひっかかって来ようというものじゃねえか。けれどもこりゃ、役割が色に転んだ狂言じゃあねえ、慾にかかった仕事だよ」
「なるほど」
米友は、折助どもの話を聞いてギクリとしました。
米友は大部屋から奥の方へソロソロと歩み出します。今の話によっても、ぜひぜひこの家に突き留めねばならぬものがあることは、充分に合点してしまいました。
米友はそこやここをウロウロと歩いて、戸の節穴や壁の隙間を覘《ねら》っていました。誰かに見つかればまさしく泥棒の仕業であります。しかしもう心のいっぱいに張りきっている米友は、更に疑惧《ぎぐ》するところがありません。戸でもあいていたなら、そこから家の中へ入ってしまったでしょう。けれど、戸はよく締めてあり、節穴もないことはないし、壁の隙間もあるにはあったけれど、中は障子が立てきってあったり、真暗であったりして、どうも思うように家の中を窺《うかが》うことができません。
もしも、それらしい女の声でもしたらと、耳を戸袋へ密着《くっつ》けたりなどしましたけれども、それらしい声も聞えません。米友はこうして家の周囲を一通り廻ってしまいました。
今度は縁の下へ潜《もぐ》ってみようと思いました。短躯《たんく》にして俊敏な米友は、縁の下を潜るのにことに適当しております。
米友が縁の下へ潜ろうとした時に、表の方で人の声がしました。
「へえ、お迎えのお駕籠《かご》でございます」
縁の下へ潜りかけた米友は、その声を聞き咎《とが》めて耳を引立てたが、急に縁の下へ潜ることを見合せて、その声のした方へ出かけました。米友は立木の蔭から、今この家の表へ来た駕籠と駕籠舁《かごかき》とをじっと見ていました。駕籠が二挺釣らせてありました。人足は提灯を持ったり、息杖《いきづえ》をかかえたり、煙草を喫んだりして、居たり立ったりしていました。これらの連中がそこへ暫く待っていると、家の中から、
「御苦労、御苦労」
と言って出て来たのは役割の市五郎であります。米友はこの男を知らないけれども、多分、これがここの親方だろうと思いました。
「親方、今晩は」
と言って、駕籠舁どもは頭を下げました。
「さあ、お嬢様、これにお召しなさいまし、お女中さんはこちらのにお召しなさいまし」
市五郎が、あとを顧みてこう言ったから、米友は、
「ちぇッ、提灯の火が暗えなあ」
米友は腹の中で業《ごう》をにやしました。米友が身体を固くして、固唾《かたず》を呑んで、その上に業をにやして待っているのは、今、市五郎がお嬢様と呼び、お女中さんと呼んだその人の影《すがた》をよく見たいからであります。まもなくそこへ現われたのは――一層口惜しいことに頭巾《ずきん》を被《かぶ》っています。頭巾を被って面《かお》の全部はほとんど見えないから、米友が身悶《みもだ》えしているうちに、その頭巾を被った若い娘は前の方の駕籠へ、市五郎が手を取って乗せて垂《たれ》を下ろしてしまいました。
「ちぇッ」
米友は口惜しがって地団太《じだんだ》を踏みましたが、続いて同じような形《なり》をして、同じ年頃の娘が、これも同じように頭巾で面を包んで出て来たのを見ると、
「おや」
米友は実にカッとしてしまいました。
「おっと待ってくれ」
こう言って暗《やみ》の中から飛び出してしまったのは、米友としてはぜひもないことであります。
「何、何だと」
はしなく米友がその場へ飛び出したことによって、その場は大混乱を惹《ひ》き起しました。
その混乱を聞きつけて折助どもが飛び出して来ました。折助どもが米友を支えている間に、市五郎は、差図してズンズン駕籠を進ませてしまいました。
ほどなく米友の姿は市五郎の家の屋根の上に現われました。彼は杖を持って、いつのまにかその俊敏な身を屋根の上へと刎上《はねあ》げてしまったものと見えます。
米友の姿が屋根の上に現われた時に、下では折助どもが喧々囂々《けんけんごうごう》として噪《さわ》ぎ罵りました。梯子《はしご》を持って来いと怒鳴りました。俺は頭を三ツ四ツ続けざまに、あの棒で殴られたと言って歯咬《はが》みをしているものもありました。眼と鼻の間を一撃の下に打ち倒されて、鼻血を出して頭の上げられない者もありました。博奕《ばくち》をしていたのも、無駄話をしていたのも、みんな馳せ集まって来ました。
下では、こうして折助が芋を揉《も》むようにして噪いでいるのを、米友は見下ろしてハッハッと息を吐きました。
「ちぇッ、口惜しいなア、こいつらに邪魔をされて、あの駕籠を追蒐《おっか》けることができねえのが口惜しいなア」
屋根の上で足を踏み鳴らしつつ口惜しがりました。
四辺《あたり》を見廻しても、夜は真暗であります。真暗い中に甲府の城が聳《そび》えています。二の廓《くるわ》は右手の方に続いています。前も左もいずれも武家屋敷であります。
屋根へ上った米友は、いつぞや古市の町で宇津木兵馬に追い詰められた時のように、屋根から屋根を泳ぐつもりでありました。
米友は小躍《こおど》りして屋根の瓦の上を走りました。
「ソレ、そっちへ行った」
折助が噪《さわ》ぎました。
「ヤレ、こっちへ来た」
梯子《はしご》が飛び廻りました。ヒューと石が飛んで来ました。
「危ねえ!」
お手の物で米友は、その石を発止《はっし》と受け止めました。
「竹竿で足を打払《ぶっぱら》え」
折助は物干竿《ものほしざお》を幾本も担ぎ出しました。跛足《びっこ》になった米友は、その危ない屋根の上をなんの苦もなく走ります。市五郎の宅から大部屋の屋根の上を鼬《いたち》の走るように走って、武家屋敷の屋根へ飛び移りました。
折助は、いよいよ噪《さわ》ぎました。梯子と竹竿とが盛んに担ぎ出されます。今や噪ぐのは折助ばかりでなく、武家屋敷の者共が、みんな家々から飛び出して噪ぎました。担ぎ出されたのは梯子と竹竿ばかりでなく、水弾《みずはじ》きや、槍、長刀《なぎなた》まで担ぎ出されるという有様です。米友はよく屋根の上を走りました。或る時はこれ見よがしに直立して走りました。或る時はそっと身を沈めて走りました。
「ばかにしてやがら、手前たちをこっちは相手にしねえんだぞ、相手にするほどのやつらでねえからそれで相手にしねえんだぞ、俺らが逃げりゃあいい気になって追蒐《おっか》けて来る手前たちの馬鹿さ加減の底が知れねえや」
こう言って米友が立ち止まって息を切った。屋根の上から下を見ると、家並《やなみ》はそこで尽きて足許は二の廓の堀の水。屋根から垣へ足をかけた米友の姿は、これもどこかの闇へ消えてしまいました。
四
何事か起るべく思われて何事も起らなかったのが、その夜の市五郎と、お銀様と、お君との一行でありました。
市五郎の挙動から推せば、この二人をどこへつれて行って、どんな目に遭わせることかと思われたのに、案外にも、極めて素直《すなお》に駕籠に付添うて有野村へ入ってしまいました。
有野村へ入って、お銀様の屋敷へ送り込んでしまいました。これでは尋常の上の平凡であります。
お銀様とお君とがその屋敷へ送り届けられた前後には、もちろん伊太夫の家は鼎《かなえ》の沸くような騒ぎであります。前に幸内の行方《ゆくえ》が今以て知れないところへ、今またお銀様とお君との行方が知れなくなったということは、伊太夫はじめ、この大尽《だいじん》の家の一家と出入りの者を驚かせずにはおきません。
お銀様もお君も、出る時は誰にも断わらないで出て行きました。ほどなく帰るつもりでしたから黙って行きました。お君は誰にか一言《ひとこと》言い置いて出ようと言ったのを、お銀様が無下《むげ》に斥《しりぞ》けてしまいました。それだから屋敷では誰あって、二人がいつごろ、どこへ行ったかを知るものはありません。召使の女のうちに、お銀様とお君さんとがお対《つい》の着物を着て紫の頭巾を被って、裏の林の中を脱けておいでなすったのを見たというものがあったというぐらいのものであります。
なかにはお君がお銀様を嗾《そそのか》して、一緒に駈落《かけおち》をしたのではないかと言っているものもありました。君ちゃんはそんな子ではない、お嬢様があの通りの気むずかし屋だから、無理にお君さんを引きつれてお出かけになったのだと弁護するものもありました。
人が諸方へ飛びました。そうして甲府の市中へ入ったということがわかり、甲府の市中へ入って八幡様へ参詣をしたということもわかり、そこでお御籤《みくじ》を取ったということもわかりました。それまではわかったけれども、それから後が更にわかりません。ところがその八幡様でもまた一つの騒ぎがありました。それは油注《あぶらつ》ぎの男が、油買いに出たまま帰って来ないということであります。
それやこれやで、尋ねに行った人は途方に暮れ、馬大尽の家の混乱はいや増しに増してきました。
そこへ役割の市五郎が、悠々として両人の駕籠を送り込んだのでありましたから、市五郎がここでどうしても器量を上げないわけにはゆきません。実際、市五郎はこの時、馬大尽の一家一門の者からも、村中の者からも、神仏のように思われてしまいました。市五郎の身体から後光《ごこう》がさすように見えてしまいました。
下へも置かないもてなしというのはこのことであります。ことにお銀様が悪い折助にからかわれていらっしゃるところを、この親方が通りかかって助けて下さったという物語りは、市五郎を武勇伝の主人公のように、村の人から崇拝させることになってしまいました。
市五郎は、自分の手柄を自分からはあんまり語りませんでした。馬大尽《うまだいじん》の一家一門の人が、さまざまに待遇《もてな》すのを強《た》って辞退して帰ることにしました。ぜひに一泊をすすめるのを断わって帰る時分には、市五郎の駕籠が提灯で隠れるほどに見送りがついて参りました。
その翌日は釣台が幾台も市五郎の宅まで運ばれ、羽織袴で親類や総代が、市《いち》の立ったほどにお礼を述べに来ました。
市五郎はこうして馬大尽の家から感謝を受け、それから同家へしばしば出入りをすることになりました。そうして主人の伊太夫と親しくなりました。伊太夫は市五郎を信用し、市五郎はよく伊太夫の意を迎えることができるようになりました。
市五郎がその後、しばしば伊太夫の許へ出入りする間に、伊太夫に向って一つの内談《ないだん》を持ち込みました。内々で伊太夫が何というか、それを聞いてみたいような口吻《くちぶり》であります。
それは意外にも縁談のことであります。
「お嬢様もお年頃でございますから」
と言い出した時に、さすがに伊太夫は苦《にが》い面《かお》をしました。
その苦い面を見て、市五郎も話しにくいのを強《し》いて一通り話してしまうと、伊太夫の苦い面が少しく釈《と》けかかってきました。
「お組頭で神尾主膳殿……」
と言って腕組みをしました。伊太夫の顔色が和《やわら》いだのを見て、市五郎はその目をそらさぬように、
「もとはお旗本のお歴々でございます、お使い過ぎでこちらへおいでになったくらいでございますから、苦労人でございます、人間が捌《さば》けておいでなさいます、物の酸《す》いも甘《あま》いもよくわかっておいでなさるお方でございます、もう御当家のこともお嬢様のことも万々《ばんばん》御承知の上で……」
と言って媒人口《なこうどぐち》らしい口を利きました。さてはこの男の縁談というのは神尾主膳へ、この家の娘のお銀様を縁づ
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