耳を澄ましていた能登守の耳へ歴々《ありあり》と聞えました。屋根の上のは何者とも知れないが、この塀の外のはまさしく捕方《とりかた》の人数であります。捕方の人数というのは、今宵《こよい》破牢のあったそれがために、まだまだこの辺を固めている役人の手配が、少しも弛《ゆる》まないことが知れるのであります。
「次第によったら、この能登守殿のお屋敷の中へ忍び込んだかも知れぬ、御門番を起して案内を願うてみようか」
「この夜中《やちゅう》、お騒がせ申しては相済まぬ、もう暁方も間近いほどに、このあたりを蟻も這《は》い出ぬように固めて待とうではないか、暁方にならば風が出るでござろう、風が出たならば自然に靄も吹き払われるでござろうから」
こんな申し合せの声も聞えます。そうして彼等はこの屋敷のまわりを固めているらしいのであります。
能登守はそれと頷《うなず》いている時に、暫らく静かにしていた屋根の上の足音がまた、ミシリミシリと聞えはじめました。つづいて※[#「手へん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と庭前《にわさき》へ落ちる物の音がしました。つづいて軒下を密《ひそ》かに走る者がある様子です。暫らくすると、どこをどうしたかそれらの足音が、たしかにこの家の中へ入って来ているのであります。しかも能登守のいま寝ているところから僅かの廊下を伝って行き得る、あの洋式の広間へ入り込んでいるらしいのであります。
この時に能登守は起き上って寝衣《ねまき》の帯を締め直しました。寝衣の帯を締め直すと共に床の間にあった、銃身へ金と銀と赤銅《しゃくどう》で竜の象嵌《ぞうがん》をしてある秘蔵の室内銃を取り上げました。
室内銃というてもそれは拳銃ではありません。普通の火縄銃よりは少し短いものであって、やはり火縄銃ではありません。
これはコルトの五連発銃というのによく似たものであります。けれども舶来のものではありません。能登守自身が工夫して作らせた秘蔵のもので、五連発だけは充分に利くのです。
能登守はこの室内銃を携えて、寝間を抜け出して廊下伝いに離れの洋式の広間へと、そっと忍んで行きました。
廊下を突き当って、その洋式の研究室へ入るには、やはり洋式の扉《ドア》であります。扉の傍の窓の隙から能登守はまず室内の様子を覗いて見ました。
火の気のなかるべきところに意外にも燈火《あかり》が点《つ》いています。それは真中の卓子《テーブル》の上へ裸蝋燭《はだかろうそく》を一本立てて置いてあるのであります。その裸蝋燭の光で朦朧《もうろう》としてそこに二箇《ふたつ》ばかりの人影が、卓子を囲んでいることを能登守は認めることができました。その何者であるかを、一見しては見極《みきわ》めることはできませんでしたけれども、二度目によく眼を定めて見れば、それが破牢人の片割れであることは直ぐに知れたのであります。
能登守は微笑しました。逃げ込むのにことを欠いて、この室内へ逃げ込んで来るとは、飛んで火に入る虫よりも無謀な者共であるわいと、腹の中でおかしいくらいに思いました。
しかしながら、それにしても彼等が存外、落着き払っていることが、能登守をして多少感心させないわけにはゆきません。それと知るや知らずや彼等は、世の常のお客に来たような心持で、椅子へ腰をかけて、物珍らしそうにこの室内を見廻しているのでありました。
「ははア、なんとこれは珍らしい一室である、見給え、壁の間には大きな黒船の額がかかっている、洋夷《ようい》の調練している油絵がある、こちらの棚に並べてあるのはありゃ大砲の雛形《ひながた》で、五大洲の地図もあれば地球儀もある、本箱に詰っているのはありゃみんな洋書で、あの机の上のは舶来の理学の器械や外科の道具と見ゆるわい、それにまたこの一室の全体が日本の造りではないわい、この板の間に敷きつめてあるのも、こりゃ和蘭《オランダ》あたりの代物《しろもの》らしい。いったいこの部屋の持主はこりゃ何者だろう。こうして見ると我々は南蛮の国へでも流れついたようで、トンと甲州にいる気はしない。もし日本の者ならば、長崎の高島秋帆《たかしましゅうはん》先生か、信州の佐久間象山《さくましょうざん》先生あたりの部屋を見るようだわい」
こう言ってしきりに室内を見廻して興がっていたのは、それは獄中で紙撚《こより》をこしらえていた奇異なる武士、すなわち仮りの名を南条と呼ばれていた破牢者でありました。彼は多年獄中にあっての蓬々《ぼうぼう》たる頭髪と茫々《ぼうぼう》たる鬚髯《しゅぜん》の間から、大きくはないが爛々《らんらん》と光る眼に物珍らしい色を湛《たた》えて、しきりにこの室内を見廻しているのであります。
「なるほど、これは妙なところへ落着いた。昔大江山の奥に酒呑童子《しゅてんどうじ》が住んでいた、それを頼光《らいこう》が退治した。酒呑童子は鬼の化身《けしん》だと俗説に唱えられていたが、近頃それはポルチュガルの漂流人が、あの山へ隠れていたのだと新奇な説を唱え出した学者がある。してみればこの部屋も、これは舶来の酒呑童子が甲州へ分家を出したのかも知れぬ、してみると我々は、さしむき渡辺の綱であり坂田の金時であるわけだが、実はうっかりすると退治られる方で、退治る方の役廻りでない」
卓子《テーブル》の上へ頬杖をつきながらこう言って笑っているのは、二番室にいた破牢の先達《せんだつ》で、これもその名を仮りに五十嵐と呼ばれていた壮士でありました。
この南条と五十嵐と二人の話しぶりは傍若無人《ぼうじゃくぶじん》でありました。実際|傍《かたわら》に人はないのであったが、それにしてもこの夜中に人の家へ忍び込んだ者の態度としては、あまりに傍若無人でありました。
しかしながら駒井能登守は、この傍若無人をかえって興味を以て見、かつその会話を聞かないわけにはゆきません。彼等がこの上どんな挙動に出るかを究《きわ》めてみなければならなくなりました。それ故に能登守は扉をあけることもせずに、鉄砲を携えたままで、例の隙間《すきま》から窺《うかが》っているのであります。そうすると南条は立ち上りました。立ち上って書棚の方へ行って、並べてある書物を一通り見て廻りましたが、最後にその中の一冊を抜き取って前の裸蝋燭のところまで持って来て、
「蘭書《らんしょ》だ」
と言いました。
「何が書いてあるのだ」
と五十嵐が尋ねました。
「スメルトクルース、つまり鎔坩《るつぼ》のことだ、鉱物を鎔《と》かす鎔坩のことを書いてある和蘭《オランダ》の原書だ」
と南条が説明しました。
「それはますます珍《ちん》だ、ここの主人は洋行した鍛冶屋《かじや》でもあるのか」
「こりゃあ高島先生のお弟子か或いは江川坦庵《えがわたんあん》の門下であろう。それにしても今時こんな書物を、甲州の山の中で読んでいるというのが変っている」
南条は首を捻《ひね》りながらその蘭書を開いてパラパラと二三葉飛ばして見ていました。これによって見れば、ともかくもこの南条は蘭書が読める人らしいのであります。五十嵐の方は覚束《おぼつか》ないと見えて、本をひっくり返している南条の手元ばかりをながめていましたが、
「とにかく、火を熾《おこ》そうではないか、そこに火鉢がある」
能登守が平常《ふだん》用ゆる大火鉢へ眼をうつしました。
「うむ」
南条の方は、まだ蘭書から眼をはなしません。五十嵐は立って火鉢のところへ来ました。そこにあったたきつけと炭とを利用して、
「ちょっと、燈火《あかり》を借りるぜ」
卓子《テーブル》の上の裸蝋燭《はだかろうそく》を取って火を焚きつけて、また元のところへ立てて置きました。
まもなく焚付の火が勢いよく燃え上ると、炭火もそれにつれて熾《おこ》りはじめました。五十嵐はその火を盛んにするようにつとめていましたが、南条は足を踏み延ばして火鉢の縁へかけ、片手を翳《かざ》したままでその蘭書をながめていました。
「面白いか」
五十嵐がまた尋ねました。
「別に面白いというべきものではない、ただ鉄を鎔《と》かす方法が書いてあるのだ。イギリスの鎔坩《るつぼ》は鋼鉄を鎔かすことができるとか、イプセルとはどうだとかいうことが書いてあるのだ」
「さあ、いい塩梅《あんばい》に火が熾った、宇津木にもあたらせてやれ」
一方を顧みると、そこに何人《なんぴと》かが寝かされていて、その上には、能登守がここで日頃用ゆる筒袖《つつそで》の羽織が覆いかけてあるのでありました。
能登守はそれと知って苦笑いし、いまさらにその室内の隅々までよく覗いて見ましたけれども、そのほかには人らしい影は見えません。つまりこの室内にあるのは、前から傍若無人に話していた二人と、別に寝かされている一人と、都合三人だけであることを確めました。
「それはそうと、南条、これから我々はどうするのじゃ」
と五十嵐は、火にあたりながら蘭書を見ている南条の横顔を覗きました。
「そうさなあ」
と南条は本を伏せて五十嵐と顔を見合せました。
南条と五十嵐とは椅子に腰をかけたまま、火鉢の火にあたって膝を突き合せて話をはじめました。
その話というのは、これからの身の振り方であります。
彼等はその挙動の傍若無人である如く、言語もまた傍若無人でありました。それは高談笑語でこそなけれ、ややはなれた能登守の立聞くところまで、尋常に聞える話しぶりでありました。
「実は、おれも弱っているのだ」
と言って、本を伏せた南条が弱音を吐きました。けれども格別弱ったような顔色ではありません。
「あの贋金使《にせがねづか》いが万事を取りしきって、山へ逃げさえすれば、衣裳も着物も用意がしてある、食糧も充分で、直ぐに信州路へ立退くようにしてあると言うから、それを信用していたのだ。あの贋金使いという奴は心の利いた奴だから、それを信用して間違いないと思っていた、また事実、間違いはなかったのだろうけれど、途中で犬に吠えられたのが運の尽きでこんなことになってしまった。これから先はどうと言うて、拙者にもいっこう考えがつかぬ、五十嵐、君に何か思案があらば聞こうではないか」
「君に思案のないものを拙者において思案のあろうはずがない、ともかくも杖と頼んだあの贋金使いとハグれたのが我々の不運じゃ、悪い時に悪い犬めが出て来て邪魔をしたのがいまいましい」
「闇と靄との中から不意に一頭の猛犬が現われて出て、我々には飛びかからず、あの贋金使いに飛びかかった、贋金使いも身の軽い奴であったが、あの犬には驚いたと見えて逃げたようだ、それを犬が追いかけて行ったきり、どちらも音沙汰《おとさた》がない、声を立てて呼ぶわけにはいかず、跡を追いかけるにもこの通りの闇、そのうち前後左右には破牢! 破牢! という捕手の声だ、それを潜《くぐ》って、やっとここへ忍び込んだけれど、これとても鮫鰐《こうがく》の淵《ふち》の中で息を吐《つ》いているのと同じことだ」
「さあそれだから、いつまでもこうしてはいられぬ、まだ夜の明けぬうち、この靄と闇との深いうち、ここを逃げ出すよりほかに手段はあるまい。この場合ぜひもないから、この室に金銀があらば金銀、衣服があらば衣服、大小があらば大小、それらのものを借受けて出立致そうではないか」
「待て待て、外の様子に耳を傾けてみるがいい」
それで室内が森《しん》として静まると、外でする喧《やかま》しい声が、鳥の羽音のように聞え出しました。それは能登守が前に聞いたのと同じく、この屋敷のまわりを走り廻る捕手の者が罵り合う声であります。それに加うるに、この屋敷の長屋に住んでいた者までが、起きて加わって罵り噪《さわ》いでいる様子であります。
「なるほど」
五十嵐はそれを聞くと、観念をしたものらしくあります。
「これでは、外へ出られぬ」
二人は、またも暫く沈黙して室の中が静かになりました。
「よしや、斯様《かよう》に捕方に囲まれずとも、このままで逃げ了《おお》せるものではない、山野を駈けめぐっているうちに、飢えと疲れが眼の前へ来て、やがて見苦しいザマで引戻されるにきまっている、どちらにしても袋の鼠になってしま
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