ったのだ。と言うて手を束《つか》ねて捕われるのも愚《ぐ》な話、窮鼠《きゅうそ》かえって猫を噛むというわけではないが、時にとっての非常手段を試みるよりほかはない。その非常手段というのは、ここへ逃げ込んだのが縁、何者か知らないが当家の主人を叩き起し、手詰《てづめ》の談判をしてみるのだ」
南条はこう言って、強い決心を示して五十嵐を見ました。
「手詰の談判というのは?」
五十嵐もまた、南条のいわゆる非常手段の決心を呑込んでいるのでしょう。ただ手段の細かい方法を聞かんとするらしくあります。
「当分の間、我々を当家にかくまってくれるように、事をわけて歎願してみるのじゃ」
「しかし、それを聞き入れてくれぬ時には?」
「その時には、この宇津木だけを当家にかくまってくれるように頼み、我々は相当の路用と衣類とを借用して尋常に逃げてみるのだ」
「もしまた、それを聞き入れなかったその時には?」
「その時には気の毒ながら、最後の手段を取るよりほかはない、最後というのは血を見ることだ」
「よろしい、その決心で働こう。当家の主人という者はどこに寝ている、ほかの者には取合わず、まず用心して忍び、その主人の寝間を突留めねばならぬ」
「さあ、その用意をしろ、何か得物《えもの》はないか、あたりを探してみるがよい」
二人は同時に立ち上りました。そうして裸蝋燭《はだかろうそく》は卓子の上から南条の手に取り上げられて、
「おい、宇津木、聞いていたろう、いま話したようなわけで我々は、これから非常手段の実行にかかるのじゃ。うまくいけばよいけれど、多分うまくはいくまいと思う。仕損じたらそれまでだ、我々は斬死《きりじに》するか、或いは身を以て逃れるか二つに一つじゃ。自然、君にも充分に手が届かぬかも知れぬ。ともかく、君はこうして待っていろ、病気でもあるし、本来、君には何の罪もないのじゃ、君を捕えに来たものがあったら、その時、この場でよく申し開きをするがよい。いいか、眠っているうちに何者にか連れ出されたと、こう言ってしまえば理も非もない。また我々が首尾よく抜け出しさえすれば、明日とも言わず迎えの工夫をする、どっちにしても落着いて寝ていることが肝腎《かんじん》じゃ」
この声を聞いて、寝台の上に能登守の筒袖羽織を被《かぶ》せられて寝ていた宇津木兵馬が、起き直ろうとして動きかけましたが、かの廊下の扉の方にあたって、トーンと一つの物音が聞えたのもその時です。この物音はさして大きな物音ではなかったけれど、さすがの二人の壮士を悸《ぎょっ》とせしめて、その音のした扉の方を見つめさせ、
「叱《し》ッ」
いま、起き上ろうとする宇津木兵馬を抑えてしまいました。
「今の物音は?」
「…………」
二人の壮士は面《かお》を見合せました。それは彼等を気にさせるのも道理で、その物音は能登守が鉄砲の台尻《だいじり》を板の間に軽く落した物音でありました。やがて室内の四方へ眼を配った二人のうち南条は、能登守の机の抽斗《ひきだし》から白鞘《しらさや》の短刀一|口《ふり》を探し出しました。五十嵐は能登守が鎔鉱の試験用に使う三尺ばかりの鉄の棒を一本探し出しました。南条はその短刀の鞘を払って、それが充分用に堪えることを知っての上で、二人はその裸蝋燭を前にかざして進んで行きました。二人の進んで行く方向は、無論、能登守が立聞きをしているはずの廊下へ通《かよ》う扉《ドア》の方向でありました。
「狼藉者《ろうぜきもの》!」
「あ!」
と驚いた二人の壮士は、その行手の扉が風もないのに向うから開いて、そこから狼藉者呼ばわりの凜々《りり》しい声を聞きました。
不意に能登守の一喝《いっかつ》に会うた時には、さすがの壮漢もピタリそこに足を留めてしまいました。
足を留めてから先に進んだ南条は、その手に持った裸蝋燭を高くさしかざして、その扉の方をじっと見つめました。後ろから進んだ五十嵐は鉄の棒を構えながら、同じく蝋燭の光で南条の袖の下から向うを見込んでおります。
扉を開いて能登守はそこに立っていました。例の五連発の室内銃を胸のあたりに取り上げて、銃口をこちらへ向けていましたが、その銃身に象嵌《ぞうがん》した金と銀と赤銅《しゃくどう》の雲竜が、蝋燭の光でキラキラとかがやきます。
双方は暫らく無言で睨《にら》め合っていました。
「其方たちは破牢者《はろうもの》だな」
能登守にこう言われて、
「お察しの通り」
南条は落着いたものです。
「神妙に致せ」
能登守は彼等が、無事に屈服することを待つかの如き言いぶりであります。
南条はその迫らざる様子を見て、自分も敢《あえ》て進むことをせずに、能登守の人品を、なおしばらくうかがっていなければならないのです。
けれども、南条の後ろに控えていた五十嵐はそれをもどかしく思いました。鉄砲だとてなにほどのことかあらん、この場合においては機先を制して彼を打ち倒すよりほかはないと覚悟をしました。それで南条の後ろから、ひそかに鉄の棒を取り直して、
「や!」
と言って能登守めがけて打ってかかろうとすると、
「まあ待て」
南条はあわててそれを抑えました。
その時に能登守は銃を本式に構えて、いま飛びかかろうとする五十嵐の肩のあたりに覘《ねら》いを定めながら、
「一寸も動くことはならぬ、何者であるか、そこで名乗れ」
この時、南条は急に言葉を改めて、
「お察しの通り、我々は余儀なく甲府の牢を破って、追い詰められ、心ならずも御当家へ忍び入り申したる者、貴殿は当家の御主人でござるか」
「いかにも拙者が当家の主人」
「当家の御主人ならば、もしや……駒井甚三郎殿ではござらぬか」
「ナニ?」
「駒井甚三郎殿ならば、御意《ぎょい》得たいことがござる、よく拙者が面《おもて》を御覧下されたい」
と言って、南条は蝋燭《ろうそく》で自分の面《かお》を焼くばかりにして、じっと能登守に振向けていました。
「おお、御身は亘理《わたり》」
能登守は篤《とく》と南条の面を見つめた後に、言葉がはずみました。それと共に構えていた鉄砲を取卸《とりおろ》して、
「君はここにいたのか、この甲府の牢内にいたのか、それとは少しも知らなかった、今宵《こよい》牢を破った浪士の頭は南条、五十嵐という両人の者とは聞いていたが、その一人が君であろうとは思わなかった。君もまた、駒井甚三郎が能登守といってこの甲府の城にいるということは気がつかなかったろう。しかも知らずしてその屋敷まで逃げて来たことが、いよいよ奇遇じゃ。ともかくもこっちへ来給え」
この打って変った砕け様は、南条を驚かしたより多く五十嵐を驚かしてしまいました。呆気《あっけ》に取られていた五十嵐を無雑作《むぞうさ》に拉《らっ》して、能登守が招くがままに、南条は旧友に会うような態度でその方へと進んで行きました。外はやっぱり靄で巻かれているのに、ここでも煙に巻かれるような出来事が起りました。
南条、五十嵐の二人は、宇津木兵馬をも携《たずさ》えて、能登守に導かれてこの廊下を渡って行ってしまった時分に、廊下の縁から黒い者が一つ、ひょっこりと現われました。
縁の下の役廻りは斧九太夫以来、たいてい相場がきまっているのであります。これは手拭で頬被《ほおかぶ》りをしていましたけれど、その挙動によってもわかる通り、さいぜんからこの辺に忍んで、何か様子を探っていたものらしくあります。廊下の下から本邸の方を見上げて、なおキョロキョロしている面を見れば、それは役割の市五郎の手先をつとめている金助という折助でありました。
金助は廊下の縁の下から顔を出したけれども、また暗の中へ消えて姿が見えなくなりました。しばらくすると奥庭の方へそっと忍び入って、また縁の下へ潜《もぐ》ろうとする気色《けしき》であります。首尾よく縁の下へ潜り了《おお》せたか、それともその辺に忍んで立聞きをしているのだかわかりませんが、とにかく、それっきり姿を消してしまいました。
ややあって、ウーとムク犬の唸《うな》る声がしました。いったん米友をつれて帰って来たムク犬が再びどこかへ行って、また立戻って来たものと見えます。この唸る声を聞くと、あわてふためいて縁の下から転がり出したものがあります。それは以前の金助でありました。
金助の狼狽の仕方は夜目にもおかしいくらいであります。二三度ころがって、やっと塀まで行くと、塀際の柳の木へ一生懸命で走せ上ってしまいました。柳の木へ登ると共に、塀へ手をかけて飛び移って、塀を乗り越えて往来へ出て、それからあとをも見ずに一散に闇と靄との間を走りました。その勢いは脱兎の如くであります。
「ああ危ねえ、今夜という今夜は、犬もいねえし、首尾も大分いいから、思い通り忍び込んで、さあこれからという時分に、また犬が出やがった。ほんとにあん畜生、俺の苦手《にがて》だ」
五六町も走ったあとで、とある町の角の火の見梯子の下に立って、金助はホッと胸を撫《な》で下ろしました。胸を撫で下ろしながら、またムク犬が追っかけて来やしないかと、キョロキョロと逃げて来た方向を見廻して、万一その辺からワッと面を出した時分には、直ぐにその火の見の半鐘のかかった梯子へかけ上ろうとする用心は、かなり抜からないものです。
「はははは、まず人に見られなくってよかった。夜這《よばい》に出かけて犬に追っ飛ばされた図なんぞは、あんまりみっともいいもんじゃあねえ、仲間の折助どもに見られでもしてみろ、いいかげんお笑いの種だ」
と言って、金助は自分で自分を嘲笑《あざわら》いをしました。この独白によって見ると、金助は誰かの頼みを受けて駒井能登守の挙動を探りに来たものではなく、その目的は全く別なところにあることがわかります。全く別なところというのは、つまりこの屋敷へ夜這に来たものなのでありましょう。毎晩のように夜這を目的に来てみたけれども、犬がいるために近寄れないのを、今夜は犬がいなかったために、屋敷の中へ忍び込むことにおいてある程度まで成功したものらしくあります。ところがその成功の途中で、また犬に追っ飛ばされたものと見なければなりません。
「ちょっ」
金助は舌打ちをして多少いまいましがったけれども、
「それでも何が仕合せになるか知れねえ、捨てる神があれば拾う神もあるもので、このおれに飛んだ拾い物を授けて下すったというのは、あの駒井能登守が牢破りを引張り込んで知らん面でかくまった一件を、すっかり見届けてしまったんだ、こいつをひとつ神尾様あたりへ売り込んでみろ、安い代物《しろもの》じゃあねえ」
こう言って金助は、前の嘲笑《あざわらい》と変ったホクホク笑いをしました。
底本:「大菩薩峠4」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 二」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※「躑躅ケ崎」「天子ケ岳」「駒ケ岳」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2002年9月21日作成
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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