ばせたのでありました。
そうして日を経て行くうちに、お君がいよいよ殿様のお気に叶《かな》ってゆくことを、家来の人たちは妬《ねた》みも烟《けむ》たがりもせずに、恐悦してゆくのでありました。
そのお君が、この若くて美しくて聡明の聞えある殿様の前へ出ることを戦《おのの》くようになったのは、ついこの二三日来のことでありました――それと同時に能登守の美しい面《かお》に重い雲がかかって、憂愁の色が湛《たた》えられるようになったのも、ふたつながら目に立つ変化でありました。
人に面を合せない時は、お君は部屋に入って泣いているのであります。能登守は茫然として、何事も手につかずに考え込んでいることが多いのであります。
今もこうして能登守は、同じような憂愁の思いに沈んで寝ることを忘れていました。この時、廊下を急ぎ足で忍びやかに走る人の気配《けはい》がありました。
能登守が低《た》れた首を上げて、その人の足音を気にすると、
「殿様」
障子を押しあけてこの一間へ入って来たのは、今まで泣いていたお君でありました。お君の振舞《ふるまい》はいつもとは違って、物狂わしいほどに動いてみえました。それでも入って来たところの障子は締め切って、そして能登守の膝元へ崩折《くずお》れるように跪《ひざま》ずいて、
「どうぞ御免下さりませ」
と言って、やはり泣き伏してしまいました。
「お殿様、わたくしが悪うございました、わたくしが悪いことを申し上げました、わたくしがお暇をいただきたいと申し上げたのは嘘でございます、わたくしはいつまでも……いつまでもお殿様のお傍にいたいのでございます、どうぞ、お殿様、よきようにあそばして下さいませ」
お君は泣きながらこう言いました。こういって能登守の膝の下に全身を埋めるほどにして身を悶《もだ》えながら、またも泣きました。
この時まで能登守の面《かお》に漲《みなぎ》っていた憂愁の色が一時に消えました。そうして炎々と燃えさかる情火に煽《あお》られて、五体が遽《にわ》かに熱くなるのでありました。
「よく言うてくれた、お前がその気ならば、拙者《わし》はいつまでもお前を放すことはない、お前もまた誰に憚ることもあるまい、今日からは召使のお君でなくて、この能登守の部屋におれ」
「…………」
「そうして、お前は好きな女中を傭《やと》うて、その部屋の主《あるじ》となってよいのじゃ、人に使われるお前でなくて、人を使う身分と心得てよいのじゃ」
「…………」
お君には何とも返事ができませんでした。殿様にこう言われたことが嬉しいのならば、もっと先になぜあんなに拗《す》ねるようなことをして見せたのだ。またこう言われることが嬉しくないのならば、今この場でそれはお言葉が違いますとキッパリ言わないのだ。
どちらともつかないお君は、何とも返事をすることができないで、やはりこの殿様の膝元に泣き崩れているのを、能登守はその背中へ軽く手を当てました。
「殿様、それでも……あの、奥方様がこちらへおいでになりました時は、わたくしの身はどう致したらよろしいでござりましょう」
「ナニ奥が? あれは病気で、とても、もう癒《なお》るまい」
「おかわいそうなことでござりまする、どうぞお癒し申して上げたいことでござりまする」
「癒してやりたいけれども、病が重い上に天性あのような繊弱《かよわ》い身で……」
「さだめて御病気中も、お殿様のことばかり御心配あそばしてでござりましょう、それがためによけい、お身体にも障《さわ》るのでござりましょうから、おいとしうてなりませぬ」
「あれは存外冷たい女である――自分の病のことも、我等が身の上のことも、さほどには心配しておらぬ、物の判断に明らかな賢い女ではあるけれど……」
能登守の述懐めいた言葉のうちには、その奥方に対する冷静な観察と、自然何か物足らない節《ふし》があるように見えます。
「どうして左様なことがありますものでござりましょう、奥方様は、どんなにか殿様を恋しがっておいであそばしますことやら」
「いやいや、あの女は恋ということを知らぬ、恋よりも一層高いものを知っているけれど……それはあの女の罪ではなくて堂上に育った過《あやま》ちじゃ、過ちではない、それが正しい女であろうけれども」
「殿様、奥方様の御身分と、わたくしの身分とは……違うのでござりまする」
「それは違いもしようが」
「奥方様のお里は?」
「それはいま申す通り堂上の生れ」
「堂上のお生れと申しまするのは」
「それは雲上《うんじょう》のこと、公卿《くげ》の家じゃ」
「まあ、あのお公卿様、禁裏《きんり》様にお附きあそばすお公卿様が、奥方様のお里方なのでござりまするか」
「父は准大臣《じゅんだいじん》で従一位の家、兄に三位《さんみ》、弟には従五位下《じゅごいのげ》の兵衛権佐《ひょうえごんのすけ》がある。その中で育った女、氏《うじ》と生れとには不足がないけれど……」
お君は能登守の奥方の門地《もんち》というものを、初めて能登守の口から聞きました。
その晩、おそく自分の部屋へ戻ったお君は、しばらく鏡台の前へ立ったままでおりました。その身には大名の奥方の着るような打掛《うちかけ》を着て、裾を長く引いておりました。その打掛は、縮緬《ちりめん》に桐に唐草《からくさ》の繍《ぬい》のある見事なものでありました。鏡台の前を少し離れて立って、自分の姿に見惚《みと》れているお君の眼には、先の涙が乾いてその代りに、淋しい笑《え》みが漂うていました。淋しい笑みの間には、堪《こら》え難い誇りが芽を出しているようにも見えました。
ことに鏡の前に立てかけてあった写真の面《かお》と、自分の打掛姿を見比べた時に、お君の面には物に驕《おご》るような冷たい気位を見せていました。
「奥方様はどんなに御身分の高いお方でもわたしは知らない、わたしはまたどんなに賤《いや》しい身分のものであっても、今となっては知らない。お殿様がわたし一人をほんとうに可愛がって下さるから、わたしはお殿様お一人を大切にする。わたしのような者がお殿様に可愛がられることが、わたしのために善いか悪いか、今、わたしにはそんなことは考えていられない。それでは御病中の奥方様に済むものか済まないものか、それもわたしにはわからない。わたしは本当にもうあのお殿様が恋しくて恋しくて、わたしは前からあんなにお殿様を恋しがりながら、なぜ泣いたり逃げたりしていたのだろう、ああ、それが自分ながらわからない。わたしはお部屋様になりたいから、それでお殿様が好きなのではない、わたしにはもうどうしたってあのお殿様のお側《そば》は離れられない、お殿様のおっしゃることは、どんなことでも嫌とは言えない。わたしの身体《からだ》をみんなお殿様に差上げてしまえば、お殿様のお情けはきっとわたしにみんな下さるに違いない。奥方様には本当に申しわけがないけれども、お殿様をわたしの物にしてしまわなければ、わたしはのけものになってしまう」
お君の写真を見ている眼は、火が燃えるかと思われます。その口から言うことも、半ば呪《のろ》いのような響でありました。お君が見ている写真というのは、最初にこの邸へ訪ねて来た時に、心あってか能登守より貰った奥方と二人立ちの写真でありました。能登守の立っている姿よりも、奥方の立ち姿がお君の的《まと》になっているのであります。
お君の姿がこの奥方の姿に似ているということは、能登守もそう思うし、家来たちもそう思うし、お君自身もまたそう思わないではないし、ことにお銀様の如きは、これがためにあらぬ嫉妬《しっと》を起して、それは弁解しても釈《と》けないことにまでなってしまいました。
「わたしも、明日からこの奥方様の通りに、片はずしに結《ゆ》って、この打掛を着てもよいと殿様がおっしゃった。奥方様がいらっしゃれば、奥方様の方からお許しをいただくのだけれども、ここでは殿様のお許しが出さえすれば、誰も不承知はないのだから、わたしは明日からそうしてしまおう。でも人に見られるときまりが悪い、御家来衆はなんとお思いなさるだろう。そんなことはかまわない、この家来衆よりもわたしの方が身分が重くなるのかも知れない。ああ、わたしが片はずしの髷《まげ》に結って打掛を着て、侍女を使うようになったのを、伊勢の国にいた朋輩《ほうばい》たちが見たらなんというだろう。わたしは出世しました、わたしは恋しい恋しいお殿様のお側で、お殿様の御寵愛《ごちょうあい》を一身に集めてしまいました、わたしのお殿様は世間のお殿様のような浮気ごころで、わたしを御寵愛あそばすのではありません、奥方様よりもわたしを可愛がって下さるのです。わたし、もうお殿様が恋しくて恋しくて仕方がない、わたしの胸がこんなにわくわくしてじっとしてはいられない」
お君は鏡台の前に立って悶《もだ》えるように、手を高く後ろへ廻して髪の飾りを取って捨てると、髪を振りこわしてしまいました。たった今、片はずしに結《ゆ》ってみたくてたまらなくなったからです。
お君はついに髪を解いて、そこで自分から片はずしの髷《まげ》を結ってみようとしました。櫛箱《くしばこ》を出して鏡台に向ったお君の面《かお》には、銀色をした細かい膏《あぶら》が滲《にじ》んでいました。お君の眼には、物を貪《むさぼ》る時のような張りきった光が満ちていました。
無教育な故にこの女は単純でありました。賤しい生れを自覚していたから、物事に思いやりがありました。今となってはその本質が、ひたひたと寄せて来るほかの慾望に圧倒されてしまいました。可憐《かれん》な処女の面影が拭い消されて、人を魅《み》するような笑顔《えがお》がこれに代りました。お君は鏡にうつる自分の髪の黒いことを喜びました。その面《かお》の色の白いことが嬉しくて堪《たま》りませんでした。それから頭へ手をやるたんびに、わが腕の肉が張りきっていることに自分ながら胸を躍らせました。お君はこうして、その写真を見ながら髪を結っては、また写真を見比べるのでありました。おそらくはその姿を能登守に見せたいからではありません。ただこの場で今宵限りこの打掛を着て、この奥方の通りに片はずしに結って、ひとりでながめていることだけに、このわくわくと狂うような胸の血汐《ちしお》を押鎮めようとするに過ぎないらしいのであります。
お君は、どうやら自分の手で、それを本式の長髱《ながづと》の片はずしに結んでしまい、ばらふ[#「ばらふ」に傍点]の長い笄《こうがい》でとめて、にっこりと媚《なま》めかしい色を湛《たた》えながら、例の奥方の写真を取り上げました。眉を払ってあの奥床《おくゆか》しい堂上のぼうぼう眉を染めることだけは、奥方のそれと並ぶわけにはゆきませんけれども、お君はわざわざそんなことをしないでも、これで充分に満足しました。燈火の下で合せ鏡までしてその髪の出来具合をながめたり、また立ってその打掛の裾を引いてみたり、立ってみたり居てみたりして堪《たま》らない心です。
お君がこうして夢中の体《てい》でいる時分に、その窓の外で風の吹くような音がしました。夢中になっていたお君には、その音などは耳に入ることがありません。つづいて刷毛《はけ》を使ってみたり髱《たぼ》をいじってみたり、どこまで行ってこの奥方ごっこに飽きるのだか、ほとほと留度《とめど》がわからないのであります。
しかしながら、その風の吹くような音が止んで直ぐに、それほど夢中であったお君が、その夢を破られないわけにはゆかなくなったのは、それが風の音だけでなかったからであります。
「ワン!」
というのは犬の声、愛すべきムク犬の声でありましたから、この声だけには、お君もその逆上《のぼ》せて逆上せて留度《とめど》を知らない空想から、今の現在の世界へ呼び戻されないわけにはゆきません。
「ムクかい」
お君はあわてて立ちました。
「お前、今までどこへ行っていたの、こんな晩にこそお邸にいて御門を守らなければならないのに、今夜に限って外へ出歩いて、いくら呼んでも出て来ないのだもの、いくら心配したか知れやしない」
庭の方へ向っ
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