絶してしまったのを、若い女房は、その夜中であることも、このごろ辻斬が流行《はや》るというようなことも知っておりながら、考え直す余裕がなく、良円寺の内に住んでいるお医者を迎えに行きました。
 夫なる人もまた、自分が女房に代って医者を迎えに行くことさえ気がつかなかったくらいでしたから、気絶した子供を抱えて、前後を顛倒して為すべき業《すべ》を知らなかったものであります。
 そのうち隣家の人も来てくれましたけれど、女房は帰らないし、医者も駈けつけてくれません。
 隣家の人たちが提灯をつけて、良円寺まで迎えに行った時から、この騒ぎが始まったものであります。
 女房は帰らないはず、医者も来てはくれないはず――その若い女房は良円寺の門前に斬られておりました。
 思慮のない人々は、その驚愕と戦慄と恐怖とをそのまま生《なま》で持って来て、若い亭主の前へブチまけたからたまりません、若い亭主はその場で即座に発狂してしまいました。
 抱いていた子を投げ出してゲラゲラと笑い出しました。
 来てくれた人々を見てもゲラゲラと笑いました。釣台で運んで来たその女房の無惨《むざん》な亡骸《なきがら》を見た時もゲラゲラと笑
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