ありました。それは血を飲みたいがために乾いた咽喉であります。
「ああ、甲府は狭い、一夜のうちに二人と人が斬れぬ、江戸へ出たい、江戸へ出れば、好みの人間を好むように斬ることができるのだ――今宵斬れば明日の晩は遠慮せにゃならぬ。甲府の土地にはおられぬ、江戸へ出る工夫はないか。江戸へ出て思うままに人を斬らねば、おれは生きてはおられぬのだ」
 彼は狂する者のように、刀の血の香いを嗅いでいるのでありました。

         九

 その翌朝、甲府の市中がまた沸き立ちました。それはまたしても辻斬があったからであります。
 その騒ぎ方と驚き方と怖れ方とが、今までよりも一層甚だしかったのは、斬られたのが女であったからであります。今まで斬られた者のうちに女は一人もありませんでした。昨夜斬られたのは女でありましたからです。
 それは八日市《ようかいち》へ呉服屋を出して、いくらもたたない若夫婦でありました。その女房が良円寺の門の前で斬られました。それはこの暁方《あけがた》のことでありました。
 この呉服屋の小店《こだな》の若い夫婦の間には、今年生れの可愛い男の子があって、虫のせいかその夜中に苦しがって気
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