気がつかないでいたと見えます。
 それから急に騒ぎ立って雨戸をあけて見たり、庭へ出て見たりするようでありましたけれども、結局、逃げた幸内の行方《ゆくえ》がわからない。そうなると神尾主膳はじっとしていられないほど、狼狽《ろうばい》をはじめましたようであります。
 主膳は周章《あわただ》しく帰りました。主膳が帰ってのあとは竜之助が一人でありました。
「神尾主膳はおれに向って、駒井能登守とやらを討ってくれという、神尾の頼みを聞いてやらにゃならぬ義理もなければ、駒井能登守を討たにゃならぬ怨みもない、おれは人を斬りたいから斬るのだ、人を斬らねばおれは生きていられないのだ――百人まではきっと斬る、百人斬った上は、また百人斬る、おれは強い人を斬ってみたいのじゃない、弱い奴も斬ってみたいのだ、男も斬ってみたいが、女も斬る、ああ甲府は狭い、江戸へ出たい、江戸へ出て思うさまに人が斬ってみたいわい。ああ、人を斬った心持、その時ばかりが眼のあいたような心持だわい。助けてくれと悲鳴を揚げるのをズンと斬る、ああ胸が透《す》く、たまらぬ」
 竜之助は座の左を探って、手柄山正繁《てがらやままさしげ》の刀を取り上げまし
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