のか、人を斬ったのか……」
 主膳は面を突き出して、その手首を篤《とく》と見届けようとして、
「取れないのか」
「取れない」
「どれどれ」
「斬った途端にここへ飛びついたから、また斬った、手首だけ残して倒れた、その手首が、ここに密着《くっつ》いて離れない」
「拙者が離してみてやろう」
 神尾主膳は竜之助の胸の前へ来て気味悪そうに、その手首にさわりましたが、
「こりゃ女の腕ではないか」
「ああ、女の腕よ」
「女を斬ったのか」
「うむ、女を斬った」
「なぜ斬った、どこで……」
 それから、やや暫らく古屋敷の中は寂然《ひっそり》としていましたが、
「はははは、拙者にその駒井能登守とやらを討てと言われるのか」
 机竜之助のこう言った声が、低いけれども座敷の隅に透《とお》りました。
「叱《し》ッ、静かに」
 それは神尾主膳が怖れるように抑えたのであります。
 それから小さい声で話が続きました。時々は声が高くなったけれどよくは聞き取れません。暫らくして神尾主膳の、
「や、幸内がいない。幸内が逃げた」
と叫ぶ声が聞えました。
 幸内を逃がしたのは自分が逃がしたのである。主膳は今までの自分のしたことに
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