神尾殿、気を確かにお持ちなさい、拙者は小林でござる、小林文吾でござる」
 後ろから抱き上げているのがこう言いました。それはすなわち剣道の師範役小林文吾であります。小林はやはり仲間《ちゅうげん》のような扮装《なり》をして、看板の上には半合羽を着て、脇差を一本だけ差しておりました。
「別に怪我をしているわけじゃねえんだ、ただ釣瓶《つるべ》の縄が切れたから、それで尻餅を搗《つ》いて気を失っただけなんだ」
 小田原提灯を差しつけてこう言ったのは、それは宇治山田の米友でありました。
 やっと気がついた神尾主膳、もとより別段に斬られたというわけでもなし、突かれたというわけでもないから、すぐに正気に返って、
「これはこれは、小林文吾殿か」
 この時には、主膳も酒乱の狂いから醒めていました。そうしてみると、なんとなくきまりの悪いような心持にもなり、また今ごろ小林師範が、どうしてこんな扮装《なり》をしてここへ来合せたかということも、疑問にならないではありませんでしたけれど、
「面目ないことじゃ、実は少々酔いが廻ったものだから、酔醒めの水を飲もうと、水を汲みかけてこの状《ざま》じゃ――して貴殿方はどうして
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