一尺ほど飛び上りました。
 広い古屋敷のことで誰もいませんから、この場へ来るものはありません。ここにいる人のために衣食の世話をする人は、この近所の農夫の家族でありましたが、それは一定の時をきめて来るほかには、ここへ寄りつきませんでした。
 どんな目に遭わされても幸内は、ついに一語をも発することができません。主膳はこの残忍性の面白味を帯びた遊戯のために、三杯目の水を汲み上げて、
「はははは、これは信玄が軍用に用いた用水じゃ、なかなか冷たい水だ、指を入れると指が切れるような水だ、信玄はこの水の底へ黄金を沈めて置いたとやら、それで水がこんなに冷たい、さあ、この冷たい水を、もう一杯飲め」
 釣瓶《つるべ》を抱いて、さあ三杯目の水を幸内の頭から浴びせようとして、神尾主膳はよろよろとよろけました。幸内に浴びせようとした水を三分の一ばかり、自分の懐ろの中へ浴びせてしまいました。
「あッ、冷たい」
 主膳は釣瓶を取落すと、釣瓶は井戸の中へ落ちました。やり損《そこ》なった主膳は、まだ釣瓶の綱の手を放さないで四杯目の水を汲みにかかりました。諸手《もろて》をかけてウンウンと力を入れて手繰《たぐ》った時は、自
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