ん。お君は、能登守の椅子に近いところまで来て、主人の寝顔の前に立っていました。
 この数日、主人の髪も乱れているし、それに寝ている面《おもて》にも窶《やつ》れが見えていました。心配そうに見ていたお君は、
「殿様」
 やや大きい声でふたたび呼んだ時に、能登守は眼を覚まして、
「あ、お前か」
と言って莞爾《にっこり》として、敢《あ》えて咎《とが》めることをしませんでした。お君が給仕としてこの室に入ることを許されている唯一の者であります。
「よく、お寝《よ》っておいであそばしました」
 お君はこう言いました。
「あ、ついうとうとと寝入ってしまった」
 能登守は椅子に埋めた身体を、少しばかり起そうとしました。
「あの、お客様でございますが」
とお君が言いました。
「客?」
 能登守は小首を傾《かし》げて、
「言うておいた通り、この仕事をはじめてからは、来客に会いたくない」
「強《た》ってお目通りを致したいと、そのお客様からのお願いでございます」
「それは誰じゃ」
「女の方でございます」
「女の……」
「はい、神尾主膳様の御別家のお方と申すことでございまする」
「ははあ」
 駒井能登守は、直ぐに
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