これをやっている、成敗《せいはい》ともに我々が引受けるから、まあまあ安心して寝て居給え」
 奇異なる武士は騒ぐことなく、兵馬をなだめて、またも静かにその切込みへ刃物を入れました。その刃物というのは、前夜隣室の羽目の隙間から手に入れた鑢様《やすりよう》のものであります。兵馬は、その上にかれこれと言いませんでした。それは余人ならぬこの人が、かく決心して事をはじめた上は、いまさら自分が是非を論じても駄目だと思ったからであります。
「世が世ならばこんなことはしたくはないが、時勢を聞いてみると、どうしてもここに安んじてはいられぬのじゃ、文天祥《ぶんてんしょう》が天命に安んずるこそ丈夫の襟懐《きんかい》ではあるが、盗人の屋尻《やじり》を切るような真似をせにゃならぬのも時節。宇津木、君だからとて、そうそう正直に冤《むじつ》の晴れるのを待ってもいられまい。上に名判官ある世には、獄屋《ひとや》のうちにも白日の照すことはあろうけれど、ここらあたりでそれを望むは、百年富士川の流れが澄むのを待つのと同じこと」
 南条と呼ばれた奇異なる武士は、こう言いながら静かに、格子の角を引いているのであります。
 兵馬はぜ
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