に、
「南条――南条」
と向うから呼びましたが、
「手を出せ」
「うむ、うむ」
こちらの武士は、耳を着けていたところより一尺ばかり下の透間へ手を当てると、その透間からスーッと抜き取ったのは、柄《え》のない一挺の鑢《やすり》のようなものであります。
「これはどうしたのだ」
「今いう贋金遣《にせがねづか》いという男が、そっとおれにくれたのだ、同じやつがまだ一挺ある、鋸《のこぎり》と鑿《のみ》と小刀《こがたな》と三様に使える」
「エライものを手に入れたな」
「それこそ天の与え」
「有難い、有難い」
と言って、こちらの奇異なる武士は、その鑢《やすり》を推戴《おしいただ》きました。
この時に牢番の小使が咳をしました。もう大抵、話すべき要領は尽きたと見えて、それを機会《しお》に話は切れてしまいました。
牢屋の形式は厳重でありましたけれど、中の見廻りはさほど厳重なものではありません。
牢番の小使の老爺《おやじ》に金をやって頼めば、大抵のものは調《ととの》えてくれます、羽目の間から物のやりとりや、小さな声で話をすることなどは、ほとんど自由です。
宇津木兵馬は、ここへ囚《とら》われて来る時に金
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