ったのを、能登守は意外に思いました。
「お前がそれを聞かない――では伊太夫がお前に伝えることを忘れたのであろう」
と言いました。
「左様でございましょうか知ら」
とお君が本意《ほい》ないように言いました。
「伊太夫が承知をすれば、お前はここへ来てくれるか」
と能登守は頼むように優しい言い方であります。
「それは御主人の方さえ、お暇が出ますれば……」
とお君は、我ながら出過ぎたように思い直しました。
「それでは、もう一度、伊太夫に頼んでみよう」
お君は、やはりその言葉を有難いことに思いました。けれども、まだそこに一つの故障があることを同時に考えさせられないわけにはゆきません。その故障というのはお銀様のことであります。旦那様は御承知があっても、お銀様が何というかとそれが心配であります。しかしそれとても、どうにか言いこしらえることができるものと安んじておりました。
お君は、今この優しい言葉を聞き、これから始終、この殿様の傍に仕《つか》えることができるという嬉しさに、胸がいっぱいであります。それがために胸がいっぱいで、己《おの》れの身分を考える余裕《よゆう》もありませんでした。また何のため
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