の慶《めで》たいことを呪うような心を起すのは浅ましいとは知りながら、お松はこの慶たい噂を慶たからず思いました。
それはそれとして、お松がいま持って出た掛物は甲府のお城の絵図面であります。今日、宝物の風入れに、お松はそれとなくこの絵図を心がけていました。塵を掃っている数多《あまた》の書物や掛物のなかにはそれがあるだろうと思っていましたが、幸いにそれを見つけました。
仕事が済んでから、お松はその絵図を持って自分の部屋へ帰りました。部屋へ帰ってそれを拡げて、つくづくとながめていました。
お松のながめている絵図には、甲府城を真中にして、その廓《くるわ》の内外の武家屋敷や陣屋、役宅などが細かに引いてありました。
お松の眼はお城の濠に沿うて東の方の一角をじっと見ていました。ほかのところはさしおいて、その一角ばかりを見つめていました。お松の見つめている一角というのは、お濠を隔ててお城と、お代官の陣屋との間に挟まれたところで、そこには罪人を囚《とら》える牢屋があるのであります。聞いてもいやな感じのする牢屋、お松はそれを見たいばかりに、わざわざこの絵図をそっと持ち帰ったのであります。牢屋を見たが
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